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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2012年 12月 2日(日曜日)

「待降節」は「待つ」季節

教会誌「こころ」2012年12月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

教会の暦の新しい一年の始まりは、必ず日曜日です。曜日が決まっているということは、年ごとに日付が変わる、ということです。今年は12月2日(日)に待降節第一主日を迎え、典礼暦の新しい一年が始まりました。待降節に入ると、典礼色も紫色に変わり、主日ミサでも「栄光の賛歌」が歌われなくなります。どうしてなのかご存じですか。

♪天のいと高き所には神に栄光♪と歌われる「栄光の賛歌」のルーツは、救い主イエスの誕生の夜に、野宿をしながら群れの番をしていた羊飼いたちに告げられた、天使の賛美(ルカ2・14参照)の出来事です。ですから、主の降誕・クリスマスに、天使たちと共に、声高らかに歌えるその時まで「待って」わたしたちは「栄光の賛歌」を歌わずにミサを捧げるのです。

「待降節」は「待つ」季節。♪もういくつ寝るとお正月♪という歌がありますが、そこには「指折り数えて待つ」という期待感、心の高なりのようなものを感じますね。教会でもクリスマスを待ちます。指折り数えて・・・に近いのが「アドベント(待降節)のろうそく」。丸いリースの上に4本のろうそくが立っている形が一般的です。麻布教会でも、祭壇の脇に飾られます。待降節第一主日には、一本目のろうそくに火が灯ります。待降節第二主日にはろうそくの火は二本になります。待降節第三主日には三本のろうそくに火が灯り、待降節第四主日には、四本すべてに火が灯ります。四本すべてに火が灯ると、その週の内にクリスマス・主の降誕がやってくるという仕組みになっています。小さいお子さんとご一緒の方は、特に聖堂の前の方に座ってミサにあずかって、「今日は一本」「今週は二本」「今日はもう三本目」・・・と一緒にともし火の数を数えていただきたいと思います。一緒に数えた出来事は、聖堂の中に漂う空気感の記憶と共に、待降節という、決して消えることのない深い印象を残すでしょう。

「待降節」は「待つ」季節。待降節には二つの「待つ」があると言われます。一つ目は、旧約時代の人々と心を合わせて、救い主の誕生を待つという「待つ」です。わたしたちは救い主の誕生を待って、「栄光の賛歌」を歌わずにその日を待つのです。もう一つの待つは、主の再臨を待つという「待つ」です。二千年以上前に、既に主の到来をいただいているわたしたちは、もう既に救い主が訪れている今、主が共にいてくださる今、を生きています。しかしそれと同時に、救いの完成の時である主の再臨(世の終わりとも言う)を待って、今日の日の今という時を生きています。これが待降節のもう一つの「待つ」です。

今年は第二バチカン公会議開催50周年の記念の年であり、「信仰年」という年ですが、第二バチカン公会議とは、一言で言えば、「教会が、自分(教会)とは一体何者か?」ということを、「初めて、自ら、自分に向かって、誠実に問いかけた」という出来事だったと言ってよいと思います。そしてその答えが『旅する教会』というものでした。「神の国はすでに来た。しかし、いまだその完成に向けて、旅を続けている教会」・・・「すでに」と「いまだ」の間を「旅する教会」・・・これが第二バチカン公会議が結論した、教会の「自己理解」です。そしてそれは、「すでに」という一つ目の「待つ」を受けて、「いまだ」という二つ目の「待つ」を生きるということに尽きるように思います。そしてそれは、とりもなおさず、わたしたち一人ひとりの自己理解でもあるのです。少し説明をいたします。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)

このイエスさまの言葉は真実です。わたしたちはこの真実に結ばれ、「すでに」神が共にいてくださるという今を生きています。しかし、「いまだ」その真実を知らない人が大勢おられます。その真実は、すべての人に伝えられなければなりません。神さまが共におられることは、すべての人にとっての真実です。洗礼を受けた者だけに神さまが共におられるのではないのです。でも、「神が共におられるのならそれでいい」のではありません。神さまが共にいてくださる真実は、出会わなければまるで無駄のようになってしまうからです。一人残らずすべての人が、その真実に出会うように、出会わせていただいたわたしたちは働かなくてはならないのです。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ10・2)

働き手とは、わたしたち一人ひとりです。神さまが共におられる、という神秘、真実を、人に気づかせ、出会わせ、一人でも多くの人を神の倉、神の家に収穫しなくてはなりません。「すでに」神さまが共におられる神秘との出会いを受けたわたしたちは、「いまだ」その完成に向けて旅をしている。わたしたちは二つの「待つ」を生きる、旅する教会なのです。

「待降節」は「待つ」季節。ただ、ぼんやり待つのでなく、「すでに」いただいた「神さまが共にいてくださる」という出会いをしっかりと持って、それをもとにして商売をし、もうけをださなければ!(マタイ25・14以下参照)働きかけた相手が、神さまが共にいてくださる神秘に出会ったなら、もうけを得たことになります。せっかくいただいた出会いであるタラントンを、土の中に埋めておいてはならないのです。今日も出会う人に「神さまがあなたと共におられます」と祈って、もうけがでるように、待降節の「待つ」を過ごしたいと思います。

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