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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2013年 11月 3日(日曜日)

11月は亡くなられた方のために祈る月

教会誌「こころ」2013年11月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

カトリック教会では11月は「死者の月」と呼ばれ、墓参や追悼ミサなどが行なわれることの多い月となっています。麻布教会でも毎年この時期に、教会の共同墓地がある「カトリック府中墓地」や、パリ・ミッション宣教会の司教・司祭の方々が埋葬されている「青山墓地」への墓参、そして合同追悼ミサが行なわれます。

11月が「死者の月」として定着したのがいつ頃、またどのようにしてなのかは、はっきりしていないのですが、典礼暦の11月1日と2日の両日が、共になくなられた方々を思い起こす特別な日であることと深く関係があると思われます。11月1日は「諸聖人」の祭日。その名の通り、すべての聖人を記念して祝う祭日です。古くはすべての殉教者を記念する祝いでしたが、8世紀頃に、この日にすべての聖人の記念を祝うようになったということです。
翌日の11月2日は「死者の日」です。死者のためにミサをささげることは最も古くから行なわれてきたことですが、典礼暦に「死者の日」が設けられたのは11世紀初めです。クリューニーの修道院長、オディロの影響のもとに、諸聖人の祭日の翌日、11月2日がすべての死者のために祈る日と定められました。このようにすべての聖人、すべての死者のために祈ることから始まる11月を教会は「死者の月」とし、すべての亡くなられた方々のために祈るのだと思います。

ところで、わたしが子どもの頃は、11月は「煉獄の霊魂の月」と呼ばれていました。そして、「煉獄の霊魂は、自分では祈れないから、地上で生きている者たちが、祈ってあげなくては天国に入れないのだよ」と教えられていました。それで、特に11月には、亡くなった方々のために祈ったのです。
カトリック教会の伝統的な教えによれば、人は死んだらすぐ、人生における神との関わりについての私審判に基づいて、報いを受けます。それは、清めを受けた上で天の至福に入るか、直接に天の至福に入るか、あるいは直ちに永遠の苦しみを受けるかのいずれかです。天の至福に入った者は、神と「顔と顔を合せて」(1コリント13・12)会い、永遠に神に似た者となります。このことを“天国に入る”と言います。また、神との親しい交わりを保ちながらも、完全に清められないままに死ぬ者は、永遠の救いを保証されながらも、死後、天の至福にあずかるための清めを受けます。その清めを“煉獄”と呼びます。自分の意志で神から離れる態度を持ち続け、死ぬまでその態度を変えずに死を迎えた者は、いのちの神との決別の状態が永遠になります。このことを“地獄”と呼んでいます。忘れてならないのは、神の望みが裁きではないということです。神の唯一の望みは人間の救い。「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ること」(ヨハネ3・16)これが神の望みだということです。伝統的な教会の教えを通して教えられているのは、「神が裁く」というよりも、わたしたち人間が、いのちの神に背を向けて、共にいてくださる「神を裁いてしまう」ことがないようにと、呼びかけられているということだと思います。

子どもの頃受けた教え、「煉獄の霊魂は、自分では祈れないから、地上で生きている者たちが、祈ってあげなくては天国に入れないのだよ」・・・
について「今」、考えてみました。結論ですが、「やっぱり、その通りだ」と思いました。天国に入るとは「神の国に入る」ということです。「神の国」とは、自分の内にも相手の内にも、神さまが共におられるという真実を、顔と顔を合せて見ることです。この世においては、「神さまが共におられるという真実」は信仰によって見るのです。だから、信仰と祈りによって、お互いが「神さまがあなたと共におられる」という真実を見合うなら、わたしたちはすでにこの世にあって、神の国に入っていることになります。しかし一方、この世で、神さまが共にいてくださるという真実を知らずに、また知っていてもその真実に目を向けることもなく、相手の、そして自分の外側だけに目を止めるなら、お互い、何も見ていないのに等しいと思います。亡くなった方々は、わたしたちの中に神さまが共におられるという真実を見るのだと思います。わたしたちがこの世で信仰によって見るよりも、もっとはっきりと見るのだと思います。そして、わたしたちに向けて、「神さまがあなたと共におられます」という祈りを注がれるのだと思います。しかし、この世にいるわたしたちには、亡くなられた方々は、肉眼の目によっては見えませんし、肉体の耳にはその祈りも聞こえません。煉獄からの祈りは、まったく顧みられることもなく、それでも注がれ続けるのかもしれません。煉獄に苦しみがあるならば、それは、ただ熱いとか痛いとかいう罰のようなものではなく、純粋な愛を注ぎながらも、それが受け取られないという、焼けつくような苦しみだと思います。そしてそれはおそらく、ただ人間を愛し続ける、純粋な愛そのものである神さまの苦しみです。この苦しみを、躍り上がるほどの喜びに変えるのは、地上に生きるわたしたちの祈りです。わたしたちが、亡くなられた方に向かって「神さまがあなたと共におられます」と祈るなら、亡くなられた方が注がれる祈りが出会って、顔と顔とを合せて出会う、神の国の喜びとなるのです。そしてそのとき、亡くなられた方はわたしたちに、いのちのすべてを注いでくださるのです。いのちのすべてを注ぐとは「神さまが共におられる」という真実との出会いを、亡くなられた方のいのちを通して、わたしたちに分からせてくださるということです。

11月は亡くなられた方のために祈る月です。いつもよりも特に心を込めてお祈りいたしましょう。祈ることにあまり気が進まないという方がおられたなら、特にその方にお祈りいたしましょう。「神さまがあなたと共におられます」とお祈りいたしましょう。みんなでお祈りいたしましょう。

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