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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2017年 7月 2日(日曜日)

若い頃思ったことを、今考えてみる

教会誌「こころ」2017年7月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

教会になかなか若い人が来ない、と言われます。自分が「若い人」と言われる年代であった頃、自分はどうであったのか、振り返ってみました。

わたしの家はひいおじいちゃんの代からのカトリックの家族で、わたしが4代目になります。家族構成は両親と、姉、兄、兄、わたし、弟という5人兄弟です。わたしは生まれて2ヶ月目に洗礼を授かっています。父は祖父と共に兄弟4人(元は6人。末の妹、弟は戦死)で、江東区の下町に小さな鉄工場を営んでおりました。みな工場の近所に住んでいて、それぞれの家族に6人、5人、5人、4人、の子どもがおり、それがみな、日曜日には本所教会(墨田区)に集まったわけですから、稲川という名前の子どもが、20人近くミサに来ていたことになります。主任司祭の下山正義神父さまは、認識と呼称の便宜のために、長男の巌さんを稲川A、次男の進(わたしの父)を稲川B、三男の保朗さん(稲川保明神父さんのお父さん)を稲川C、四男の栄治さんを稲川D、と呼んでいました。その呼び名は信者の間にも浸透していて、今でも本所教会の古い信者さんに会うと、「神父さんは、Bさんの子どもですか、Cさんの子どもですか?」とか言われたりします。「わたしはBの4で、稲川保明神父さんはCの1です。わたしより7つ年上です」というような使い方で、説明のために便利でした。今は4人とも神のもとに召されています。

さて、父は熱心な信者でしたので、家族全員を毎週ミサに連れて行きました。子どものわたしにとってミサは、行かなくてよいならその方が嬉しい、という感じのものでした。小学校1年生の時に、下山神父さんがわたしに「圭三、お前神父になれ」と言われました。「なる」と言ったら、皆が喜んでくれるだろうなと思ったのを覚えています。でも、(だからといって自分がなる、というのはちょっと違う)、という感じでした。小学校3年生の時、下山神父さんが、「圭三、お前神父になれ。なるんだったら、ヨーロッパの旅行に連れて行ってやるゾ」と言いました。「行きたいなあ」と思いましたが、でも、(だからといって自分がなる、というのはちょっと違う)、という感じでした。

土曜日の午後「要理教室」という教会学校があり、3時半に始まり、夕方5時のミサに与って終了というプログラムでした。翌日の日曜日もミサに与りましたから、毎週2回ミサに与っていたことになります。中学生位までは、毎週のミサで侍者をしていました。高校生位の頃でしょうか、こう思ったのを覚えています。「教会は、何かするべきことがあるならその場にいられるのだけど、することがないと、その場にいられないんだよなあ・・・」。その頃、確かにそう思いました。そのことを今でもはっきり覚えています。高2の頃だと思いますが、突然下山神父さまが「お前を典礼委員に任命する」と言われたのです。でも、典礼部会があったわけではなく、もう一人大学生の方だったかが同時に任命されて、「一緒に何かやれ」、ということだったのでしょうか。今考えると「するべきことをする」機会は作っていただいていたのだなと思います。ところが、その方と一回会って、「どうしようか」と相談しただけで、あとは本当に何もしませんでした。数年後に下山神父さまに、「お前は、本当に何もやらなかったな」と言われました。

わたしの子どもの頃の本所教会は、バザーもなく、教会学校のキャンプもなく、信徒会館もありませんでした。でも、青年会、姉妹会はあり、姉妹会は売店の本などの販売を任されていました。青年会では月1回要理セミナーという講座を開いて、イエズス会のアルムブルスター神父さまにご指導を仰いでいました。また、何か社会に貢献できることをということで、年に1回くらい、先輩たちと一緒に献血に行ったのを覚えています。本所教会の最大の行事は、毎年2月5日の最寄りの日曜日に行われる、「日本二十六聖人奉祝記念祭」でした。午前中にグレゴリアンミサ。ミサ後、参加者に「お弁当」と「おでん」のお昼が振る舞われて、午後にキリシタンについての講演会があり、ベネディクションがあって、最後に「福引き」があって夕方頃終わるという、ちょっと昭和っぽいところのある、大きな行事でした。カトリック新聞にも広告を出して全国に呼びかけたので、遠方からの参加も多かったのです。そんな際、何かと青年会、姉妹会に仕事が割り振られてきました。大学は千葉大学に通いました。所属していたギター部の仲間の下宿を泊まり歩いて、日曜日に教会に行かない日が増えました。久しぶりに教会に行った時、下山神父さまに「圭三くん」と呼ばれたことがありました。わたしが自分の中に、何か教会との距離を身につけてしまっていたのでしょう。今考えると悲しくて涙が出ます。

小学校の教員になって、社会の固い現実に触れた時、教会の中に本当のものがあると気付くようになり、親が行くからではなく、自分の意志でミサに与るようになりました。24~5歳のことだと思います。そんな頃のある日曜日、夜のミサに与っていて、侍者がおらず下山神父さまお一人でした。その時、心の中に(自分はここにいて、侍者をすることが出来るのに、なぜしないのだ?)という声があって、「出来るのなら、するべきだ」と思って、ミサの途中からですが、香部屋に入って、侍者服に着替えて侍者の奉仕をしました。数年振りでしたが、この時からまた侍者を再開することになりました。「お前の侍者は、まだ10年早い」と言われながらお仕えし、「カトリック信徒として恥ずかしくない、立派な教師になれ」と言われ、「教会委員会で働け」と言われ、最後に三度目になりますが、「圭三、お前神父になれ」と言われました。その問いかけに「はい」と答えるには更に数年を要したのですが、今振り返ってみると、本当にいろいろと声をかけていただいていたのだと気付かされます。9年間努めた教員をやめて、神学校に行く決心をした時の考えは「良いことだったら、するべきだ」というようなものでした。「司祭になりたい」という強い希望があったわけではありません。また司祭になることが、「良いこと」とわかっていても、何がどう良いのか、自分でも分からずに神学校に行ったのです。でもそれは下山神父さまが、「行け」と言ってくださったからです。

今年、司祭叙階丸20年を迎え、先日麻布教会の皆さんにお祝いいただきました。本当にありがとうございました。20年経った今、高校生の時に思ったことを改めて考えてみました。「教会は、何かするべきことがあるならその場にいられるのだけど、することがないと、その場にいられないんだよなあ・・・」これです。わたしは「何かするべきこと」というのが分かってきました。それは「祈ること」です。人に「神さまがあなたと共におられます」と祈り「キリストがあなたの中に復活しておられます」と祈ることです。そして、目に見える人だけでなく、その人に関わりのあるすべての霊であるいのちの皆さんに向けても、祈らなくてはならないと分かってきました。そしてその「するべきこと」が、本当は自分の「したいこと」なのかも知れません。でも、まだよく分かっていないのです。この先、分かるのか分からないのか分かりませんが、今は分からせていただいた「するべきこと」をさせていただきたいと思っています。

「神さまがあなたと共におられます」

「キリストがあなたの中に復活しておられます」

教会だけでなく、人のいない所でも、雑踏でも、「するべき祈り」を分からせていただいたので、どこであっても、「その場にいる」ことができるようになりました。

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