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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2017年 10月 1日(日曜日)

神学校を辞めなくてはならないと思った時のこと

教会誌「こころ」2017年10月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

先月号の巻頭言で、カルメル会のシスターたちにお話をしたと書きました。自分は何を話せるのだろうかと、一週間、よく思い巡らしました。その時、神学生の時のことを思い出しましたので、今日はそのことを書かせていただこうと思います。

わたくしは1991年の4月1日に9年間働かせていただいた公立小学校の教員を辞めて、4月2日に東京カトリック神学院に入学しました。当時神学校は、上智大学の神学部に通うという旧制度から、神学院内で哲学・神学の養成を行うという新制度に移っていました。わたくしは新制度の二期生。最初の一年は栃木県那須町にある「ガリラヤの家」という初年度養成の家で過ごしました。(現在は制度が変わり、施設は閉鎖)ガリラヤの家は、「ベタニア会」を母体とする、社会福祉法人慈生会の「光星学園」(現在はマメゾン光星)という知的障害者の支援施設の敷地内に建っていて、食事もその施設か ら運んでいただいていました。光星学園は那須の原野に、歩いて一周するのに1時間では回れない程の広大な敷地を持っていて、その中に、畜産部、林産部、農芸部、手工芸部などの部がありました。当時、100名以上の方が生活していたと思います。そこで牛を飼育し、椎茸の栽培なども行っていました。神学生には初年度養成の勉強の合間に、週3日程、午後、入所者の人たちと一緒に働くというカリキュラムがありました。わたしは林産部に配属されて、入所者の人たちと一緒に、椎茸の原木を担いで山を登ったり降りたりする作業をくり返していました。カトリックの施設とは言え、職員の方々は 殆どが信者でない方々でした。新しい制度が始まってまだ二年目のこと、去年から来始めた、生涯結婚しないで、教会の神父になろうとしている「神学生」という人たちを、皆さんは不思議なものを見るような目で見ておられたのではないかと思います。

那須での生活のことを、一期生の先輩神学生からいろいろと聞いていましたが、その中に、「秋に園のマラソン大会があって、神学生は全員参加」というものがありました。そして 昨年は、毎年優勝している職員の先生を抜いて、東京教区の伊藤神学生が一位になったのだ、と聞いていました。わたしは心の中で、(神学生はがんばるところを見せないとならないのだろう)と何か責任めいた思いを持っていました。コースは行きが下り3km、帰りが登り3kmの6kmでした。標高差は100m弱といったところでしょうか。最後の坂は自転車を押して登らなくてはならない心臓破りとなっていました。わたしは走るのは決して得意ではなく、好きでもなかったのですが、何かどこかに責任めいた思いがあって、休日には練習でコースを走ったりしていました。

マラソン大会は10月14日の月曜日。天気は快晴でした。園の職員、入所者の人たち、神学生が一斉にスタートしました。みんな、ものすごいペースで走り始めて、それに遅れまいと付いて行ったので、わたしは最初の数分で(もう走れない)という状態になっていました。それでもなんでも、ただ走るのみ。折り返し地点では、係の人が手にマジックペンを持っていて、走者の掌にバッテンをつけるのです。手前で折り返してしまうという、ズル防止のためです。折り返し後の4kmくらいのところにトラピスト修道院があって、そこに応援のシスターが立っていましたが、わたしを見るなり「稲川さ〜ん、がんばらなくていい〜」と言われました。よっぽどひどい状態だったのでしょう。それが最後の記憶でそこから先は全く何も覚えていません。でも、後で聞いたところによると、そこからまだ1.5km位走っていて、最後の心臓破りの坂の途中で倒れたのだそうです。

わたくしが次に気付いたのは、病院に向かう車の荷台の上でした。なぜ自分がここにいるのか、なぜこんなに苦しいのか全く意味が分からず、混乱していましたが、ふと(自分は神父になれるのだろうか)という思いが浮かんで来ました。病院に着くと、同級生の服部大ちゃん(広島教区)が診察室までおぶって連れて行ってくれました。「オッサン、くそ重いな」と言っていました。通路のベンチで診察を待っている患者さんたちの目が、一斉にこちらに向けられていました。その人たち一人ひとりが思っていることが、手に取るようにわかると感じられた、不思議な精神状態でした。

診察台に横に寝かされて、酸素マスクをつけられた時、(ああ、この出来事は下山神父さまに報告しなくてはならないな)と思いました。しかし、次の瞬間(待てよ、報告するのは、まず神さまではないか)と思い、心の中で「主よ」と呼びかけたのです。しかし、それに対する答えが全くなかった!まるで放送室の壁が音を全部吸い取ってしまうように、全く何の反応も感じられませんでした。それは物凄く恐ろしい体験でした。その瞬間、「わたしが神学校に入ったのは、神さまの呼びかけを聞いたのでなく、人間の呼びかけを聞いたのだ」と思いました。そして、今晩にでも荷物をまとめて神学校を出て行かなくてはならないと思いました。「人間の声を聞いて入ってきた者がこんなところにいたら、きっと家族にも、親類にも良くないことが及ぶに違いない」と思ったからです。そう決めると、次々と考えが浮かんで来ました。「帰ったら、本所教会にも挨拶に行かなくてはならないな。神学校行きましたが、やっぱりダメでしたと挨拶をしよう」「小学校にも職員室に行ってちゃんと挨拶をしよう」「子どもたちにもちゃんと話そう」・・・そんなことを思っている内に、自分の内に神さまからの返答が返ってくるのを感じ、また喜びが湧き上がってきました。それは本当に大きな喜びと感動であったので、診察台の上で横になったまま「主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない」と大声で歌ったのです。するとドクターは驚いて、脳の異常を疑ったのでしょう、付き添ってくれていたモデラトールの今田神父さま(札幌教区)に「普段このようなことはあるのですか」と尋ねていました。「あ、はい。お祈りでは歌いますが・・・」 と、ちょっと困ったように答えていました。それで、急遽CTに入れられることになってしまいました。機械に通されている間(ああ、最初に神学校を辞めて行くのは、自分だったんだな。考えてもみなかったことだけど、現実は本当にわからないものなのだな)と心の中で言っていました。そして、涙が出てきました。その時初めて、自分は司祭になりたかったのだとわかりました。「よいことだったらする『べき』だ」という思いで入って来た者だったからです。出て行く時になって初めて、なりたかったと分かったなんて、残念だなあ、と思っていました。

診察が終わり、30分くらい休んでから帰る時、今田神父さまに「すぐに荷物をまとめて帰らなくてはなりません」と言うと、神父さまは笑って「まあまあ」と言っていました。冬休みに入って、下山神父さまにこの話をすると、神父さまは何も言わずに黙っておられました。霊的指導司祭に話すと「まあまあ」と言っていました。結局この出来事の意味は、神学生時代には分からず、神父になってもわからないままでした。でも司祭になってからのある時、「なんで下山神父さんを通して神さまが呼びかけられたと考えないの?」と問いかけるような思いがありました。言われてみれば、その通りでした。なんでそんなことが今まで気付かなかったのか不思議でした。

わたしの中に、神さまとは聖なる方、人間とはかけ離れた完全なお方、という考えがあったのでしょう。人間は不完全。だから神は、不完全な人間ではなく、超常的な、特別なしるしをもって現れるべきお方だ、という理解があったのでしょう。でも、今はそうは考えません。「神さまの完全」とは不完全で塵に過ぎない、無に等しいわたしたちに、愛によって共にいてくださること。それが神さまの完全なのだと思います。

しり切れトンボになりました。長文にお付き合いくださり、ありがとうございます。

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