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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2017年 12月 24日(日曜日)

昨年わたくしが頂いたプレゼント

教会誌「こころ」2018年1月号より
 
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
 

クリスマスおめでとうございます。

さて、「クリスマスプレゼント」という言葉は、誰もが知っていますね。子どもたちは、サンタクロースからプレゼントをもらうのを楽しみにしているかもしれません。でも最大のプレゼントとは、「神さまがわたしたちと共にいてくださる」ということです。旧約聖書の創世記に、「主なる神は、土の 塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)と書かれています。塵から創られ、塵に帰っていく人間の中に、永遠のいのちの神さまが共にいてくださること、これこそが第一の、そして最大のプレゼントです。でも、それだけではありません。神さまが共にいてくださるのに、罪のためにそのことが分からなくなってしまったわたしたちのために、神さまは第二のプレゼントを贈ってくださいました。それがイエス・キリストです。

イエスさまという方は、「インマヌエル」と呼ばれるお方です。これはヘブライ語で「神は我々と共におられる」という意味の呼び名です。つまり、イエスさまというお方は、ご自分の内にも、すべての人の内にも、神さまが一緒にいてくださるということを、完全に分かって生きた方だということです。ご自分だけでなく、出会うすべての人間に、「神さまが共におられるのですよ」と告げ、「すべての人間が、既に第一のプレゼントを頂いている」という真実に、何とかしてわたしたちを出会わせようとされた方、それがイエスさまというお方です。この方こそ、神さまからの第二のプレゼントです。そして、そのお方の誕生をお祝いするのが、クリスマスです。ところで、すべての人に第一のプレゼントをお与えになった神さまは、第二のプレゼントをも、すべての人にお与えになろうと望まれました。ここに救いの計画があります。

一人の人として世に来られたこの第二のプレゼントを、すべての人に与えたいと望まれた、おん父・神さまのみこころを受け取り、それを全うするために、イエスさまは十字架に挙げられました。すべての人に「ご自分」という、第二のプレゼントを与えるために、イエスさまは十字架の上で死なれ、そして復活されたのです。イエスさまはユダヤ人の手に引き渡され、十字架に掛けられました。手足を釘で打ちつけられた十字架の上で、イエスさまは祈られました。ご自分を殺そうとする者のために祈られたのです。その祈りとは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)という祈りでした。「自分が何をしているのか知らない」という言葉の深い意味は、「彼らは、自分たちの中に神さまが共にいらっしゃることを知らない」ということであると思います。しかし、 彼らの「知らない」そのことを、イエスさまは「知って」おられました。つまり、ご自分を殺そうとする彼らの内にも、神さまが共にいてくださることを「知って」おられたのです。そして、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(同46)と言って、ご自分のいのちを、おん父・神さまに委ねました。すべての人間が第一のプレゼントを頂いており、すべての人間の中に神さまは共にいてくださいます。その真実を「知って」おられた主イエスは、その真実の中にご自分のいのちを引き渡されました。言うならば、すべての人の内にある 第一のプレゼントの中に、第二のプレゼントを入れてくださったのです。だから、今や、すべての人間の内に神さまが共にいてくださり、その中に主イエスが共にいてくださいます。これこそが、わたしたちすべての人間にとっての「今日の日の今の真実」です。

そして、更に第三のプレゼントがあります。聖霊というお方です。このお方が来られる時、わたしたちは第一のプレゼントと、第二のプレゼントに深く出会わせていただきます。聖霊というお方は、何かを新しくつけ加えるお方ではないようです。わたしたちが既に頂いているものに、深く出会わせていただくように働きかけてくださるお方です。第三のプレゼントである聖霊というお方の働きと交わりによって、わたしたちは、第二のプレゼントである主イエスと共に、第一のプレゼントであるおん父・神さまに結ばれて、一緒の向きで生きるいのちになります。すると今度はわたしたちが、自分以外の人の中に、神さまとイエスさまと聖霊の交わりを認め、その人のために祈るいのちとなっていきます。「神さまがあなたと共におられます」「キリストが復活して共におられます」「聖霊の交わりが豊かにあります」と祈り、そのことを人に告げるいのちになるのだと思います。「5タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして・・・」(マタイ25・16)とあるのは、プレゼントを頂いたわたしたちが、それをもとに人に祈り、告げることではないかと思います。土の中に埋めておいた僕は「怠け者」と言われてしまいました。

昨年から今年1年を振り返って、よかったと思うことは、多くの人に祈るようになったことです。以前から人に「神さまがあなたと共におられます」と祈り、人にもそのように祈ることをお勧めしていたのですが、昨年の暮れくらいから、その人だけでなく、その人に関わりのある霊であるいのちの皆さんにもお祈りするようになりました。つまり、ある人にお祈りするとするならば、その人に「神さまがあなたと共におられます」とお祈りするだけでなく、「(その方に)関わりのある霊であるいのちの皆さん」と呼びかけ、「神さまがあなたと共におられます」とお祈りするようになったということです。どうしてそのように祈るようになったのか・・・。振り返ってみると、唐突な感じがあるかも知れませんが、ちょうどその頃からCPAP(シーパップ)という人工呼吸器の一種を使用し始めたので、そのことが遠因にあるかなあと思います。

ことの発端は昨年の夏。神学校の同級生の広島教区の大ちゃん(服部神父さん)と北アルプスに山登りに行って、山小屋に泊まった翌朝、「アンタのいびき、ヒドイぞ。部屋の人は口には出さんが怒り心頭やぞ!」と言われたことです。困ったなあと思いながらも、幸か不幸か自分のいびきを聞いたことが一回もなく、また、普段は被害者もいないので、そのままになっていました。秋口に風邪をひいて耳鼻科にかかった時、軽い気持ちで先生に「いびきがひどいらしいのです」と言うと、「今度調べてみましょう」と言われ、自宅で検査することのできる機材を渡され、三晩ほど就寝中にデータを録って 先生に提出しました。1カ月程して解析結果が出たというので、先生の説明を聞きに行きました。「どうせ、大したことないだろう」と思っていましたら、先生は「かなり酷いですね」と言われたのでびっくりしました。なんでも「一時間に平均57回息が止まっており、一番長い時には117秒止まっていて、その時の酸素飽和度が53%まで落ちている」ということでした。どうやら立派な「睡眠時無呼吸症候群」であるようで、先生には「これはCPAPをお使いになられることをお勧めします」と言われました。ベルトで鼻マスクを固定し、そこにチューブを繋ぎ、機械から圧力をかけた空気を送り込むという代物で、見た目は病院に入院している人のようになります。ネットで調べて知ってはいましたので、(嫌だなあ)と思いましたが、断ることもできず、その日から使い始めることになりました。煩わしさはありますが、慣れてしまえばなんでもなく、1年使ってみて、やはり使い始めてよかったと思います。

何がよかったのか・・・、やはり、その人だけでなくその人に関わりのある霊であるいのちの皆さんにも、祈るようになったことかなあと思います。機械が祈りを作るわけではありませんが、日中たくさんの人に祈るために、夜の間必要な空気を送り込んでくれているのだと思います。これはわたしが昨年頂いたプレゼントで、きっかけを作ってくれた大ちゃんは、以前から頂いているプレゼントです。

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