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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2018年 6月 3日(日曜日)

「父の日」に想う

教会誌「こころ」2018年6月号より
 
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
 

5月の第二日曜日は「母の日」、5月の第三日曜日が「父の日」です。どちらも日頃の親への感謝を表す日です。親への感謝を表す記念日は、国によって呼び名も日付も異なるようです。「5月に母の日」、少し遅れて「6月に父の日」と、記念日が定められたのは20世紀初頭のアメリカでのことです。それが日本に伝えられた時期に違いがあるせいかも知れませんが、日本ではどちらかというと「母の日」の方が「父の日」よりも盛大に祝われているように思います。

今年、四旬節一日黙想会でご指導くださった山内神父さまは、現在ベトナムの修道院に滞在中ですが、「ベトナムの教会では、マリアさまとヨゼフさまを同じように大切にして祝っていますよ」と仰っていました。「日本でも、見倣ったらいいですね」と仰っていました。そう言えば日本ではマリアさまにお祈りをすることはあっても、ヨゼフさまにお祈りをすることが少ないのかも知れません。わたくし自身について言えば、ヨゼフさまに祈る習慣を持っていないと気付かされました。巻頭言を書くことを通して、毎回、色々なことに気付かされます。今回もこのことに気付かされました。今日からお祈りすることにいたします。「イエスの父ヨゼフよ、神さまがあなたと共におられます。キリストが復活しておられます。聖霊の交わりが豊かにあります」と祈ることにいたします。

さて、「父の日」を迎えるにあたり、わたくしの父のことを話させていただきたいと思います。父は4年前の3月11日に91歳で帰天いたしました。わたしは父が自分の中に、一緒の向きで生きてくださっていると理解しています。父は大正11年11月24日に埼玉県川口で、フェリクス稲川福松、セレスチーナとみの次男として生まれ、幼児洗礼を授かりました。霊名はヨハネです。7歳の頃、父親の仕事の関係で当時の深川区(現在の江東区)に転居となり、本所教会に通ったようです。兄弟構成は、兄、父、弟、弟、妹、弟という6人兄弟です。一番下の妹、弟が昭和20年3月9日の下町の大空襲の際に戦災死しています。それぞれ小学校6年生、3年生でした。父は小学校卒業と同時に親元を離れ、川口の鉄工所に働きに出ましたが、辛いことが多く、早く大人になりたいと思っていたようです。川口で成長した後、兵隊検査で甲種合格となり、昭和18年に横須賀第三海兵団に入隊し、横須賀・相模野・館山・美幌・滝川に派遣され、滝川で終戦を迎えたとのことです。本所教会の青年会で下山正義神父さまが、父の兄弟4人を、A・B・C・Dと呼んでいた頃(2017年7月の巻頭言で触れました)姉妹会に属していた母と出会い、下山神父さまの司式で結婚式が挙げられました。昭和26年のことです。そして両親から5人の子どもが生まれました。姉、長兄、次兄、私、弟の5人兄弟です。父は小学校しか出ていない人ですが、ものごとをよく思い巡らし、深く考える智慧のある人だったと思います。わたくしが幼い頃の父の記憶は、口数が少なくいつも黙々と働いていたという印象です。大人になってからその頃のことを尋ねたら、「もし自分が倒れでもしたらと考えると、その責任で笑ったりしている余裕はなかったねえ」と話していました。言葉数は多くありませんでしたが、行動にその秘められた思いが表れている人だったので、父については話すことがたくさんあります。その筆頭はやはり「自分で家を建てたこと」かな、と思います。

当時わたくしの家族は、江東区石島という下町に住んでいました。家の間取りはと言うと、六畳間と三畳間があるだけの木造の平屋でした。六畳間にはタンスなどもありましたし、三畳間は食事をする場所になっていたので、一体家族7名がどうやって生活していたのか、想像するのも難しいくらいです。しかし今、その時そこにあった計り難い神さまの恵みを思うと、涙が出ます。わたくしが5年生になった時、父は突然、十坪足らずの狭い庭に家を建て始めたのです。その頃姉は高校2年、長兄は中3、次兄は中1、そして弟は3年生になっていました。思春期を迎えた子どもたちが、さすがにこの居住環境ではやっていけないと考えたのでしょう。しかし、父が兄弟たちと一緒にやっていた鉄工場の収入は僅かで、貯蓄もなく、「自分で家を建てる」が、父の唯一の選択となっていたのだと思います。父の計画は、屋上の付いた鉄骨の2階建てでした。それ以来、子どもたちも含め、すべての日曜日は家を建てるための作業日となりました。地面に穴を堀り、割石をして、捨てコンクリートを流し、基礎のための鉄筋を組み、堰板で鉄筋を囲み、コンクリートを流し、基礎を埋め戻し、鋼材屋に行き、H型鉄骨を買ってきて、錆を落とし、ボルトで連結できるように、両端に穴の開いた鉄板を溶接し、ペンキを塗り、鉄骨を組み上げ、コンクリートブロックを積み、水回りの下水のパイプを堀り、水道管を引き、アルミサッシの木枠を作り、風呂の浴槽を作り、タイルを貼り、トイレを設置し、モルタルで壁を塗り、フローリングで床を張り・・・等々の仕事を続けました。本当に一から自分たちだけで行っていきました。日曜日のみの作業なので、進行は遅々としたものでした。

中学に入った頃、中身はまだ全然できていなかったのですが、一応雨風だけは防げる状態になったので、風呂とトイレと大部屋1つだけ整え、何とか住める形にして、兄弟男4人が、鉄骨の二階に引っ越しました。天井も張っておらず、キーストンという波形の鉄板が丸見えになっている倉庫のような状態でしたが、それでもそこで男兄弟4人の合宿のような生活が始まりました。その後も、少しずつ建設は続けられたのですが、父は50を越えるあたりから、疲れやすくなってきて、また資金面でも難しく、材料も買えず、建築は停滞しました。外壁を塗るために、杉の丸棒で組んでいた足場は、4年も5年も組まれたままでした。ある日曜日、父の隣でミサに与っていて、「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造りあげるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」(ルカ14・28)という福音が読まれました。その福音は、「そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」と続きます。わたしは横目でちらっと父を見ながら、「早くこの福音が終わらないかなあ」と思っていました。

大学2年生の時、時代の色々な状況が重なって、父が兄弟たちと経営していた鉄工場を閉めなくてはならなくなりました。そのタイミングで、「最後まで未完成であった家」は、土地ごと人手に渡り、わたしたち一家は千葉県に引っ越しました。でも、土地を買ってくれた人はその家に手を加えて、20年位は使ってくれたようです。今はその家も壊され、そこには全く違う建物が建っています。しかし、最後まで未完成であったあの家は、わたしの心の中に、はっきりと残っており、ため息の出るような懐かしさで、わたしの中に建っています。詩編に「神によって建てられるのでなければ 家を建てる人の骨折りはむなしい。神によって守られるのでなければ 町を守る人の警戒はむなしい」(詩編127)という言葉があります。わたしは、最後まで未完成であったあの家は、神さまによって建てられたのだと思っています。そして、父も今、わたくしの中に立っていてくださいます。

わたしは一体、この世を去った時、こんなにしっかりと人の中に立ついのちになれるのだろうか・・・。いや、そうなるように今をしっかりと、誠実に生きなくてはならないでしょう・・・?はい、わかりました。がんばります。父の日を迎えるにあたって、父のことを話させていただきました。いつも自分のことばかりを話しておりますが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。

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