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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2018年 8月 5日(日曜日)

幸いの時、幸いの記憶

教会誌「こころ」2018年8月号より
 
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
 

わたくしは月に一度、みこころ幼稚園の年長さんに神さまのお話しをしています。聖堂の中で行われる、15分足らずの短いお話しです。先日は、お話しの時間に子どもたちに尋ねてみました。

「みなさんは『幸せ』っていう言葉を知っていますか」
「知ってる~」
「『幸せ』ってどういうことかね?」
「うれしい」
「嬉しい・・・、そうね、嬉しいことって幸せなことだね」
「いいこと」「楽しい」「いいことが起こる」
「そうだねえ、そういうことを幸せって言うのかな」
「いろいろな国はごはんが食べられないけど、日本はごはんが食べられるから幸せ」
「たしかに、そういう言い方をするよね」
「前の土地では毛糸を取ってお洋服とか作れなかったから、こっちでは羊とかいるから、一杯毛糸が作れて、お洋服も一杯作れるから 幸せ」(どこの国の話なのだろう?)
「いろいろな国の人は、爆弾とか落ちてきて、お洋服とかもないけど、日本はあるから幸せ」
「そうだね。そういう言い方をするよね」
「ボクんち車ないんだけど、歩く。えーと、オモチャ一杯ないんだけど・・・」と男の子が言うと、「どういう意味!?」と、隣の女の子が言いました。「車とかオモチャがなくても、でも、幸せっていう意味なのではないかな?」

そんなやりとりをした後、「まだみんな『幸せ』という言葉の意味をよくわからないかもしれないけど、今自分が幸せか? 幸せでないか? 聞いてみてもいい?」と尋ねると、「いいよ」と言うので、みんなに聞いてみました。「自分が今、幸せだと思う人、手を挙げてくれる?」と尋ねると「普通〜」という声も混じって、8割くらいの子どもたちが手を挙げていました。「じゃあね、あんまり幸せじゃないかな、と思う人いるかな?」と尋ねると「幸せじゃない」と言って、堂々と宣言するように手を挙げている子たちもいました。こういうところが、子どもたちは本当に「神さまの子ども」だなあと思う所です。大人だったら、回りの目を気にして、きっとどちらにも手を挙げませんよね。(ちなみに、この時回りに親御さんはいらっしゃいませんでしたから、ご心配なく)更に、「じゃあ、もしよかったら何で幸せ じゃないって思うのか、教えてもらってもいい?」と聞くと、何人かの子は教えてくれました。子どもらしい、かわいらしい理由でしたが、それはさすがに個人的なことになるので、ここでは控えることにいたします。

さて、その後子どもたちに、わたしの個人的な経験を話させてもらいました。「神父さんねえ、『幸せ』って言うと思い出すことがあるんです。神父さんが、幼稚園くらいの時かな? 神父さんには、お父さんお母さんと、兄弟が5人いて」と言うと「え〜っ!?」と、兄弟の数に関して、思いがけない所で「その日最大の反応」がありました。本題はそこではなかったのですが・・・(笑)。「神父さんは、お姉ちゃん、兄、兄、わたし、弟という5人兄弟、7人家族。神父さんの幸せのイメージは、朝、目が覚めた時のことなんです。」・・・と話し出しました。そしてその時のことを話し終わると、子どもたちは「夢なの?」とか「うそ」とか「あ、意味わ かった」とか言っていました。無理もありません。申し訳ないことに、話し方からも、内容からも、子どもたちには訳の分からない話になってしまいました。

わたくしの「幸い」の記憶は、幼稚園生くらいの頃のことであったと思います、朝、目覚めた時のことでした。わたくしの住まいは江東区の下町の木造平屋で、本当にボロ家でした。居間が六畳一間しかなかった家の玄関には、二段ベッドが置かれていて、そこに姉と上の兄が寝ていました。そして六畳間には、父と、母と弟、兄とわたしが、それぞれ一緒の布団で寝ていました。ある朝のこと、その日は何故だか目を開けた瞬間、もう完全にすっきりと目が覚めておりました。家族は皆まだ寝ています。家族の中で自分ただ一人だけが目を覚ましておりました。枕元にガラス戸があり、雨戸が閉まっていたので部屋の中は暗かったのですが、黒い雨戸の隙間から、真っ青な空が見えていました。そしてそこから斜めに射し込んだ朝日に、部屋の中の小さなほこりが照らされて、きらきらと光の筋道が出来ていました。ほこ りは輝きを放ちながら、舞うようにゆっくりと動いていました。ただ、それだけのことなのですが、それがわたしの中の「幸い」の記憶です。それがどうして「幸い」であるのか、自分でもよくわかっていないのですが、とにかくその時のことを、なぜかはっきりと覚えていいます。そしてそれは、今考えると何かに「満たされた時」であったのだと思います。「幸い」とは、満たされることなのかなと思います。

「満たされた時」と言うと、以前どこかで お話ししたことがあると思いますが、わたくしはミサの拝領後の沈黙の時間がとても好きです。何とも言えない、たっぷりとした沈黙の時間は、皆が一緒に神さまのいのちの中に入って一つになり、満たされる幸いな時だと思います。わたしは拝領の後の沈黙の時に、多分こんな風に祈っています。会衆の皆さんに向かって「神さまがあなたと共におられます」「わたしは復活してあなたと共にいます」「聖霊の交わりが豊かにあります」とお祈りしています。そして、そこにいる皆さんだけでなく、皆さんお一人おひとりに関わりのある、霊であるいのちの皆さんにも祈っています。「皆さんと関わりのある霊であるいのちの皆さん」、と心の中で呼びかけてから、「神さまがあなたと共におられます」「わたしは復活してあなたと共にいます」「聖霊の交わりが豊かにありま す」とお祈りしています。

拝領後の沈黙の時、いつもおもしろいなと思うのは、赤ちゃんのような小さい人たちが、この時にお話しを始めることです。いろいろなところで、ぽしょぽしょと、優しい声で話しているのが聞こえて来ます。大人が沈黙しているので、子どもの小さい声が聞こえるのかもしれませんが、拝領後の沈黙の時になると一斉に聞こえてくるので、いつもおもしろいなと思っています。聞こえてくる子どもたちの声はとてもきれいに聖堂内に響いています。そしてこの時、わたしはいつもキャンプ場の朝のことを思い出します。みなさん、ご存知でしょうか。森の朝、夜が明けるちょっと前くらいでしょうか、鳥たちが一斉に鳴き始める時刻があるのです。それはもう、びっくりするくらいいろいろな種類の鳥たちが美しい声で鳴き始め、森に響きわたります。そしてそれはまた、陽が昇ると収まってしまいます。一説によると、夜明け前の、気温が下降から上昇へと向かう僅かな時間帯に大気の動きが収まり、鳥たちが一番よい声で歌うことができるからなのだそうです。一番よい声で、複雑で微妙なニュアンスのメッセージを伝えるために、夜明け前のほんの一時に、小鳥たちは一斉に美しい声で歌うのだそうです。神さまからの恵みに満たされて、静かに収まった拝領の沈黙の時、小さい人たちの声が聖堂に響きだすと、わたしはいつも「森で歌っている小鳥たちと一緒だなあ」と思いま す。それはきっと豊かで複雑なニュアンスのこもった美しい歌なのだと思います。拝領後の沈黙の中、小さいお子さんの「もう、終わったの?」という、ささやくような一言が、聖堂中の人を笑顔にしてしまうことがありますでしょう? その一言は、神さまからの恵みに満たされた沈黙の時間が産んだ、美しい調べなのだと思います。またその調べを柔らかく、温かく受け取らせていただくのも、神さまからの恵みに満たされた、幸いの時のしるしなのだと思います。

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