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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2018年 12月 24日(月曜日)

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

教会誌「こころ」2019年1月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

クリスマスおめでとうございます。
新年あけましておめでとうございます。

さて、クリスマスは言うまでもなく、イエス・キリストの誕生のお祝いですね。どうしてイエス・キリストの誕生をお祝いするのですか? それはイエス・キリストがわたしたちの救い主だからです。救い主・・・「救い」とは何ですか? 救いとは、神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを「よし」(創世記1・31)としてくださっていることに出会わせていただくことです。その方は、どうやってわたしたちを「神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを『よし』としてくださっているということ」に出会わせてくださるのですか? それは、わたしたちと一緒に生きることを通してです。

一緒に生きる・・・その方は、今どこにおられるのですか? すべての人と共におられます。今生きている人だけでなく、亡くなられたすべての方々とも共にいて、「一緒に生きよう」と絶えず祈り、働きかけておられるお方なのです。わたしはその方がわたしたち一人ひとりの内に、一緒の向きで生きてくださっていると理解しています。その方は「神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを『よし』としてくださっているということ」を知っておられるのですか? はい。知っておられ、その真実を生きておられます。だからわたしたちと共にいて、わたしたちに、その真実を「一緒に生きよう」と働きかけられるのです。そして、一緒に生きることを通してわたしたちを、「神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを『よし』としてくださっているということ」に出会わせることがお出来になるのです。「一緒に生きる」とは、具体的にどうすることなのですか? はい、そのお方は「神さまがすべての人と共におられる」(インマヌエル:マタイ1・23)と教えた方ですから、そのお方と一緒に、人に「神さまがあなたと共におられます」と祈ればよいと思います。また、そのお方は復活して「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28・20)と 言われた方なので、人に「キリストがあなたと共におられます」と祈ればよいと思います。またその方は「父である神は、真理の霊を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14・16)と言われた方なので、人に「聖霊の交わりが、あなたに豊かにあります」と祈ればよいと思います。それがその方と一緒に生きることだと思います。そうすると、「神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを『よし』としてくださっているということ」に出会わせていただけるのですか? はい。そう祈る時、一緒にいてくださるお方と一緒の向きで生きることになり、そのお方と一緒のからだになっていきます。そのお方は「神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを『よし』としてくださっているということ」を知っておられるお方なので、ご自分のいのちの全部で、そのことをわたしたちに分からせ、出会わせてくださいます。

神さまが共にいてくださるとは思えない人、思えないことにもそう祈るのですか? はい、そうです。神さまが共にいてくださることは、そう思えるか、そう感じられるかという「自分」からのことでなく、共にいてくださる神さま「あなた」からの真実です。だから、そのお方に信頼して、そう祈ります。その時、「神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを『よし』としてくださっている」という「あなた」の真実に出会わせていただきます。そうですか。分かりました。それでその方は「救い主」と言われるのですね? その通りです。だから、わたしたちはそのお方の誕生をお祝いするのです。 それが今お祝いしているクリスマスということなのですね。はい。正にその通りです。

救い主イエスさまは、誕生して飼い葉桶の中に寝かされていますが、どうして赤ちゃんとして来られたのですか。救い主なら、大人であってもよかったのではないですか? 大人として生まれてくる人は誰もいないでしょう。それに「救う」とは、網やザルで掬うように掬い上げることなのではないのです。救いとはわたしたちが、「神さまがすべてのものと共にいて、すべてのものを『よし』としてくださっていることに出会わせていただくこと」です。わたしたちは、「出会わせていただかなくてはならない」のです。そして救い主とは、わたしたちがそのことに出会えるように、「一緒に生きることを通して」教えてくださるお方なのです。だから救い主は、わたしたちが一緒に生きることのできるお方として、つまり、真の神であり真の人としてお生まれになられたのです。すべての人間は皆、赤ちゃんとして生まれて来るからです。

イエスさまは、いつご自分が「神の子」だって分かったのですか? 聖書に、はっきりとそう書いてあるわけではありませんが、イエスさまにとって洗礼という出来事が、その大きなきっかけとなったことは間違いありません。イエスさまはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。マルコの福音書には「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マルコ1・10-11)と書かれています。それから“霊”はイエスさまを荒れ野に送り出しました。イエスさまは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられました。この試練を通して、イエスさまはご自分が「神の子である」とはどういうことであるかを、はっきりと受け取られたのだと思います。ご自分が「神の子である」とは、自分が何かが出来るとか、自分が何かを持っているかとか、自分が人からどう思われているか、という「自分」からのことなのではなく、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださった神さまの「あなた」からのことなのだと、はっきりとお分かりになられたのだと思います。「神の子である」とは、「自分」に根拠があることではなく、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 とおっしゃる「あなた」、父である神さまに根拠のあることなのだと、はっきりと受け取られたのだと思います。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださった、おん父神さまと深く結ばれたイエスさまは、おん父と一緒の向きで生きるいのちとなられました。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というおん父の言葉が、ご自分だけでなく、すべての人間に向けて言われている言葉であることをお分かりになられたのだと思います。それでイエスさまは、父である神さまと一緒の向きで生きて、このメッセージをすべての人にお伝えになったのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、わたしたちに呼びかけられるおん父は、わたしたちを「よし」とし、「愛し」、 わたしたちの内にお住まいになっておられるお方です。そのことをイエスさまは、人々にお告げになられたのだと思います。だから、そのことをお互いに大切にし合うように、人間の中には、神さまが共におられるのだからそのことを大切にし合うように・・・。それがイエスさまの教えの中心だと思います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」すべての人が、神さまからこう呼びかけられています。それはわたしたちの方には理由がありません。ただそう呼んでくださる「あなた」、父である神さまの方に理由があります。はっきりとそう受け取られた時、イエスさまはご自分が「神の子」であることをお分かりになった、と言ってよいのではないでしょうか。 そして、そのイエスさまは今、復活してすべての人と共にいてくださるいのちとなっておられます。そのお方と一緒に生き、父である神さまがわたしたちに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけておられることを受け取る時、わたしたちも自分が「神の子」なのだと分からせていただくのだと思います。

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