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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2019年 3月 3日(日曜日)

二度の巡礼のお恵み

教会誌「こころ」2019年3月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

2月11日(月)から20日(水)まで、イスラエルの聖地巡礼に行って参りました。ガイド・引率・旅行社代表を一人で務めるスーパー添乗員の河谷さん(潮見教会)という方を含めて 18名というこぢんまりとしたグループでの巡礼でした。参加者は、麻布、本所、八王子、上野毛、潮見、厚木からでしたが、同行司祭がわたくしでありましたので、麻布の参加者の方が半数を越えていました。羽田から香港、香港からテルアビブまで、キャセイ航空の飛行機で参りました。イスラエルの国内は大型バス1台を借り切って、ドライバーと現地ガイドの方が加わっての巡礼となりました。今回の巡礼の特色は、イエスさまが歩かれた歩みをできる限り、その時系列を崩さずに辿っていくということでした。また、毎日その場所にふさわしい福音個所を選んで、ミサが捧げられたということも恵みでした。マリアさまが御告げを受けたナザレ、ガリラヤ湖のほとりの山上の垂訓の教会、タボル山の頂にある主の変容の教会、草木一つ生えていないユダの荒れ野、天使が羊飼いにメシアの誕生を告げたベツレヘムの洞窟、ゲッセマネの園、そして二人の弟子にご復活の姿を現されたエマオ、でミサが捧げられました。

さて、わたくしが聖地であるイスラエルを訪れるのはこれが二回目です。一回目は東京教区の神学生と養成担当の司祭たちからなる11名の巡礼団での訪問でした。「神学生のうちに聖地を訪れておくことは意味のあること」と考えられて企画されたものであったと思います。(結局一回だけしか実施されませんでした)こんなことを言うと多分、「またとない恵みの機会に何故?」とお叱りをうけるかもしれないのですが、どちらの巡礼も、初めは「自分としてはそんなに積極的には望まない」という感じのスタートでした。一回目の巡礼は1997年、叙階式の翌日3月3日の朝5時台の電車で池袋駅を出発するというスケジュールでした。司祭に叙階されるのは、教会で働くためです。それなのに、こともあろうに叙階式の翌日に聖地巡礼に出かけてしまうとは、(何のために司祭になったのかと、思われはしないか・・・)と、あまり気が進まなかったのです。今考えると、ずいぶん人の目を気にしていた自分だったのだな あと思います。

二回目の今回についてなのですが、わたくしは今までいろいろな旅行社から巡礼のお誘いをいただいていたのですが、全部「75歳までは行きません」とお断りしていました。それは、小教区での仕事や、いただいている他の役割をするのが第一で、巡礼のことはある程度役割が外れてから、と考えていたからです。今回も5月頃お話をいただいた時、初めは全く同じようにお断りしたのですが、河谷さんは下山神父さまが長く団長を務めていらした、ジュリア祭に関わるようになってくださっていたので、そのたってのお願い、ということでお受けすることになりました。しかし昨年暮れに「神学校への異動」という話が決まってからは、これはやはりお恵みなのだと受け取るようになりました。考えてみると、司祭叙階されて小教区に派遣される直前に聖地巡礼の恵みをいただき、22年間の小教区での働きを一旦終えて、神学校での働きに移る直前に聖地巡礼の恵みをいただいたということになります。まだその意味はよく分かっていないのですが、これは大きなお恵みなのだと考えるようになりました。そして実際二回の巡礼は、体験させていただいて、いずれも大きな恵みをいただきました。

今回の巡礼前半に訪れたガリラヤ地方は、緑豊かな土地でした。ガリラヤ湖を囲むなだらかな丘は一面の緑で、その中に菜の花の仲間だろうと思われる黄色い花の群れが広がっていました。ここでイエスさまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたおん父の眼差しで、人々に「幸い」と告げ、あなたがたは「地の塩・世の光」、と人々を励まされたのでしょう。大勢の人が癒され、多くの人が弟子となって従ったこの時期は「ガリラヤの春」と呼ばれる、恵みの時でした。しかし、十二人の弟子を選び、フィリポ・カイサリアというユダヤの国の北のはずれの土地で、ペトロがイエスに「あなたはメシアです」と信仰告白したことをきっかけに、イエスさまの歩みは変わっていきました。ご自分の道は、多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活する、「十字架に向かう道」なのだと、弟子たちに打ち明けられました。そしてそれは海面下200mのガリラヤから、草木も生えないユダの荒れ野を経て、標高800mのエルサレムの都へ上る道であり、地理的にも標高差1000mを登っていく道でした。エルサレムの町は、今でも石造りあるいは白い壁の建物でなくてはならないという規制 があるそうで、ガリラヤの緑とはうって変わって、そこは白い色の都でした。わたしたち巡礼団は17日の日曜日に、「最後の晩餐の部屋」から、「ゲッセマネ」に行き、そして「鶏鳴教会」に行きました。ここは大祭司カイアファの館のすぐ隣にあり、鶏が鳴く前に、ペトロが三度イエスを否んだ場所です。ここに、二千年前のものと確かめられている石段があります。これはキドロンの谷を越えてゲッセマネへと通じている道なので、 ゲッセマネの園で捕らえられたイエスさまがカイアファの館に連行された時、必ず歩いた石段であると言われています。この石段を見た時、22年前の一回目の巡礼でも、ここに来たことを思い出しました。そして、巡礼の感想を教区ニュースに書いたことも思い出しました。調べてみましたら、こんなふうに書いていました。

最も印象深かったのは、イエスが歩いただろうと言われている2000年前の石段でした。全員で見学した時には、写真を撮るだけで終わりましたが、最終日に自由行動で訪れた時には、 しばらく黙ってそこに立つことができました。オリーブ山で捕らえられて後、キドロンの谷を渡ってこの石段を登られたイエスは何を思われたか、どんな足取りだったのか。思い巡らしてみたのですが、叙階後間もない旅の空の身で、これといった責任を負わされているでもない私には、正直言って実感が伴いませんでした。でも、その時同時に感じたのは、いつの日 か、実感もなく歩んだ今日の日があった事を、感慨深く振り返る日が来るという直観でした。(東京教区ニュース第142号)

思い出しました。この原稿を書いた時は、この石段を登られたイエスの思いや、足どり、すなわち「十字架」とは、「仕事や生活の中で負っていく、様々な責任」なのだろうと思っていたのでした。でも、それは違いました。確かに司祭になって特に最初の10年は、これでもか、これでもかと大変なことがありました。しかしそのことを通して、次第に何が本当に大切なことなのかを分からせていただいたように思います。今はイエスさまの十字架とは、「すべての人の中に、神さまが共におられることを認め、祈る」ということなのだと理解するようになりました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28~30)「休ませてあげよう」と言われるイエスさまの休ませ方は、「そこに寝ていていいよ」というものとは違います。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」・・・これがイエスさまの休ませ方です。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われます。「軛」とは二頭の動物を横並びにして、首の所に横棒を通して縛り連結させる農耕具のことです。「わたしの軛」とは、わたしたちがイエスさまと横並びに繋がれて、一つのいのちになっていくということです。そうして、イエスさまと一緒の向きで生きていく時、「安らぎを得られる」とイエスさまはおっしゃるのです。イエスさまの軛は負いやすく、歩いても疲れません。また「わたしの荷は軽い」と言われるのは本当です。「イエスさまの荷」とは、「人の中に、神さまが共におられることを認め、祈って生きること」です。それが「荷」と言われるのは、往々にして「認めにくい」からです。自分が苦手な人に、また自分の敵に「神さまが共におられます」と祈るのは、大変なことに思われるからです。 しかし、一旦祈るようになると、もっと多くの人のために祈ることが出来るようになります。2人の人に祈れば、今度は4人の人に祈ることが出来る様になります。4人の人に祈れば、今度は8人の人に祈ることが出来るようになります。「わたしの荷は軽い」と言われるのは本当です。

22年前は、石段を自由に歩けたのですが、今は柵が作られ、入ることは出来なくなっていました。一度目の巡礼では分からなかったのですが、今回は分かりました。2000年前、イエスさまは全ての人の中に、神さまのいのちを見て、自分を殺そうとする者の中にも、神さまが共におられる真実を見て、歩まれたのだろうと思います。ご自分の荷を負って歩かれたのだと思います。わたくしも4月から神学校ですが、神学生にはそのことを伝えたいと思います。人の中の悪を数え立てる神父でなく、イエスさまの荷を負う神父になるようにと伝えたいと思います。

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