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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2019年 6月 2日(日曜日)

聖霊降臨の主日を迎えるにあたって

教会誌「こころ」2019年6月号より
主任司祭 ルカ 江部純一

爽やかな季節(五月)となった(はずである)が、寒暖の差があり、天候は安定しているとも言い難い。遅かった復活祭、暦といまの自分の季節が何となくしっくりしない。もうすぐ梅雨入りでもある。

三月後半、桜の開花に合わせて公園に写真を撮りに出かけたが、例年ほど「季節」を感じ取ることができなかった。「あ、咲いている」とは思った。その光景や写真の色彩を見ると確かに春を感じないわけではないのだが、どうも何かが違う気がした。そして異動による荷物整理。段ボールに本やファイルを詰め込む。この程度の荷物で済むのならいいのだが・・・と思いつつ、多くの皆さんにお世話になった。感謝申し上げます。

爽やかな季節が始まると人混みや雑踏を離れ、自然に向かうこころが駆り立てられる。さして体力もなく、ふだんの鍛錬もいい加減であり、且つ痛みに見舞われているにもかかわらず、山に登りたいと思う。理由はいくつかある。山頂に立って圧倒的な景観を眺めたい。この景観を眼の奥に定着させたいと同時にいつでも見られるように写真に収めたい。周辺の草花や自然のまっただ中に身を置きたい。降るような星空を眺め神が造られた世界を感じ取りたい。山がわたしを呼んでいる。などなど。しかし一番大きなことはきっとこれだと思う。「いい風に吹かれたい」から。「神の息吹を全身に感じ取りたい」から。

登山家の長谷川恒男氏の顕彰碑が武藏御嶽神社の先(長尾平入口)にある。

「登攀の前には、葛藤がある。なぜ悩むのか。それは行動を起こすことによって、「肉体」が滅びることを「精神」が恐れるからだ。「精神」とはヒトが人間であることを示す最後の砦なのだ。」

物故した大登山家のことばは、遙かに厳しい自然に対峙する者のみが言えることばであるが、日常生活をしているわたしたち一人ひとりにも通じるものがある。山に行こうとしているわたし自身、いつもこのように感じている(「辛い、苦しい山登りに来るんじゃなかった・・」「毎年からだがキツく感じる」など)。それでもなお「いい風に吹かれたい」。「自然の中で神の働き、息吹を感じ取りたい」。

「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11・4)という人間の思い・企みを神は見抜かれ砕かれる。そこで神は人の言葉を混乱させ、互いに聞き分けられないようにされた。人の言うことが分からない。「言葉が混乱している」人間の現実。混乱、分裂している現代社会のありさま・・・。この現実と正反対の出来事を述べているのが使徒言行録第二章である。違いを違いとして認識しながらもなおその人を受け入れ、交わることができる。ペトロの説教を聴いて大勢が悔いあらためる。約束された霊が与えられ(聖霊降臨)、教会の始まりが告げられる。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」信者たちは「皆一つ」になった。「いい風に吹かれている」。聖霊によって変えられていく。

「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。」(詩編104・30)

「けがれたものを きよめ すさみを うるおし うけたいたでをいやすかた かたいこころを やわらげ つめたさを あたため みだれたこころをただすかた」(聖霊の続唱)

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3・8)

このわたしにいのちを与え、生かしてくださり、変えてくださる神の働きに栄光が帰せられますように。聖霊の照らしによって日々新たに歩んでいくことができますように。

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