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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2019年 2月 3日(日曜日)

出会いを通して働かれる神さまに祈る

教会誌「こころ」2019年2月号より
 
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
 

1月7日(月)に、今年の東京教区の人事異動が発表されました。わたくしは4月1日付で、練馬にある東京カトリック神学院のモデラトールとして赴任することになりました。神学院は一応「学校」であるので、任命が4月1日付となっております。しかし、今年は復活祭が4月21日(日)ですので、それまでの間は麻布教会の主日のミサを行い、また洗礼志願者の皆さんへの指導も続けていきます。4月中は神学校から麻布に通うことになるのか、そのあたりはまだわかりません。モデラトールというのはラテン語で、「仲介者」「指導者」「抑制する人」といった意味があります。音楽でモデラート(moderato)というと、「中庸の速さで」という意味になりますね。同じようにモデラトールとは、学問を教えるというのではなく、神学生たちと一緒に生活しながら、「神さまが共におられることを受け取って生きる – 中庸」を、共に歩んでいく者ではないかなと思います。

ところで、麻布には2012年の4月22日(日)に着任しましたから、今年の4月21日(日)まで、本当に丸々7年お世話になったことになります。自分としては「あっという間」の7年でした。振り返ってみますと、初めの内は「神さまがあなたと共におられます」と人に祈ってください、と言っていました。しかし、次第にそれでは足りないと気づき、加えて「キリスト が復活してあなたと共におられます」と人に祈ってください、と言うようになりました。そして最後に、「聖霊の交わりがあなたに豊かにあります」と人に祈ってください、と言うようになりました。今になって考えてみると、これはつまり「父と子と聖霊への祈りそのもの」なのだなあ、と思います。さらにここ数年は、目の前の人、今生きている人だけでなく、すでにこの世の命を終えられた、「霊であるいのちの皆さん」にも祈ってください、と言うようになりました。振り返ってみますと、それが、わたしが麻布でしてきたことのすべてだと思います。

さて、原稿を書いております今日は1月17日(木)、聖アントニオ修道院長の記念日です。わたくしの恩師の下山正義神父さまの誕生日で、かつ下山神父さまの霊名のお祝い日です。朝の祈りの中で黙想をしておりました時に、ふと「下山神父さまがいらっしゃらなかったら、わたしは生まれなかったに違いない」と気づきました。唐突な話で申し訳ありません。わたくしの両親の家族は、父・母共に、わたくしからみて曾祖父母の代からのカトリック信者でした。母方の祖母もカトリック信者で、結婚の時、祖父も洗礼を受けたようです。そこに女の子が5人生まれ、皆、幼児洗礼を授かりました。母はその4番目の娘です。所属は本所教会でしたが、教会にはほとんど行っていなかったようです。その母が、教会に足を運ぶようになった きっかけは、戦後間もなく見た一本の映画だったということです。『我が道を往く』というアメリカ映画の中に、ビング・クロスビーという俳優が演じる若い神父が登場し、その姿を見て憧れ、何か思う所があったのでしょう、娘4人(一番下はまだ幼かった?)で、本所教会の司祭館を訪ねたのだそうです。計算してみると母が21歳位のことです。その時、真っ黒なスータンを着て、ドタドタと出て来られたのが、痩せぎすの下山正義神父さまだったのだそうです。牛乳ビンの底のようなレンズのロイド眼鏡をかけた日本人の神父は、映画で見た神父とは、似ても似つかぬ風貌であって、とてもびっくりしたとのことでした。それでも母たちは下山神父さまが司牧する本所教会に通い、姉妹会に入って教会のお手伝いなどをしていたのでしょう。昭和26年には、同じく本所教会の青年会に所属していた父と結婚することになりました。下山神父さまがその結婚式を司式してくださり、両親の間から5人の子どもが生まれました。わたしはその4番目の子どもです。司祭になって間もない頃、母と話す機会があって、教会に通うことになったきっかけや、司祭館の玄関に出て来られた下山神父さまが、想像していた神父のイメージと全然違ってびっくりしたことなどを初めて聞きました。下山神父さまは、人によっては「オッカナイ神父」だと言われたりもするので、母に「お母さん、下山神父さん、どんな感じだったの」と聞くと、その時母の口から出てきた言葉は、わたくしが全く予想しなかった内容でした。「あのねえ、何というか、すごい魅惑的な目で人を見るんだよねえ。それで何というか、お父さんに出会うまでの間、へんな人にひっかかってしまったりすることがなくて、神父さんに守られていたというか、何かそんな感じだったねえ」と話したので、びっくりしました。そしてその後、「下山神父さまという方に出会ってから、すべてが良いようになっていったんだよねえ・・・」と、何かつぶやくように、自分自身に向かって言うように、ポツリ と言った母の言葉が、とても深く印象に残りました。今朝の黙想の時、ふと、そのことを思い出しました。そして、母が教会に行き続けるようになったのも、父と出会って結婚することになったのも、みんな下山神父さまが関わっておられると気づいた時、「もし、下山神父さまがいらっしゃらなかったら、わたしは生まれなかったに違いない」と思ったのでした。

そのわたくしは、下山神父さまから「圭三、お前神父になれ」と言われて神父になりました。小学校1年生の時と、3年生の時と、あとは20年後に30歳ちょっと前位の頃に、三度目に言われてなりました。二度目と三度目の間に20年も間があるのは、わたくしが一度お断りしたからです。高校2年生の夏に、受験する大学と学部を決めるように、学校から指導を受けていました。そうでないと受験科目が決まらないからです。そんなことを考えていた頃、下山神父さまからではないのですが、心の中で、「神父さんになるっていうのはどうなの?」という 声、内心の声がありました。わたしは、「神父さんというのは、もっと偉い人がなるものだから、自分には関係がない」とはっきりとお断りしました。それで「神父さんでないなら、学校の先生になろう」と、なぜか「即座に」そう思い、教員への道を進むことになったのです。大学に入って、あまり教会に行かない日々をへて、小学校の教員になって、社会の固い現実に直面した時、教会の教え、聖書の言葉が「本当のこと」なのだとわかってきました。そして、今まで「親が行くから」一緒に行っていた教会に、「自分の意志」で通うようになっていきました。その頃から少しずつ、下山神父さんの「言うことを聞く」ようになっていったように記憶しています。いつごろの時点でのことか、よく思い出せないのですが、とにかく神父さまのおっしゃることを素直に聞こうとするようになり始めた頃、下山神父さまに「今まで、一度も神父さまの目をちゃんと見たことがありませんでした」と言ったことがあります。下山神父さまは驚いたように「まさか!」と言われました。でも、本当なのです。もちろん神父さまの目を見たことは、今までたくさんあったはずです。でも、見ていてもいつも「自分」というこっち側にいて、神父さまの目の向こう側に、ただただ信頼して眼差しを向ける、ということがなかったのです。

4月から神学校でモデラトールとして働くことになりました。22年間の小教区での仕事で学んだのは「人のために祈ること」です。神学校でも学んだことを活かして、神学生のために、そして一人ひとりの人生の背景にある関わりのために、そしてそのすべての関わりのある霊であるいのちの皆さんのためにお祈りしたいと思います。そして神学生が人のために祈る人になっていくように、願い祈りたいと思います。

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