教会誌「こころ」2013年4月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
わたしが高校生位の頃だったでしょうか、同じ教会に通っていた、大学生の先輩の一人が、突然わたしに、「キリスト教の信仰の根本は復活なのだ。復活なしには、何の意味もないのだ」というようなことを言ってきました。日曜日のミサの後のことだったのだと思います。どういう話の脈絡だったのか、さっぱり覚えていないのですが、非常にきっぱりとした、確固たる言い方だったので、深く印象に残っています。そしてその時「そうなんだ、復活って大切なんだ」と思った記憶があります。
わたしは幼児洗礼で、毎週必ず、家族七名で一緒に出身教会の本所教会(墨田区)のミサに与っていました。小学校の時は、要理教室(教会学校)が土曜日にあったので、必ず夕方5時からのミサにも出ていました。ですから、毎週2回ミサに与っていたことになります。それでも高校生になって、そう言われて初めて「そうか、復活って大切なんだ」と思った、という程度でした。それも、先輩が「大切だ」と言ったから、「大切なのか」と思った、というだけで、何も深いことがわかったわけではありませんでした。でも、「復活って大切なんだ」・・・ということは、頭の中にずっと残っていました。人は「言われたからといって分かるものではない」・・・けれど、「言われなかったら、気づきもしない」ということもあるのだと思います。
それで、若いみなさん、小さいみなさんをも含めて、みなさんに申し上げます。「主イエスの復活は、わたしたちの信仰の中心です。大切なのです」そして、その記念である「ミサ」は大切なのです。好きな人に会う、デートのように大切なのです。愛しているから、会わなくてもいい、とは言わないでしょう? 愛していたら、顔を見て会いたいでしょう?そのように、ミサは大切なのです。わたしたちに会うために、イエスさまはミサで、顔を見せてくださるのです。だから、大切なのです。一回でも多く与って、会うことが大切なのです。さて、ここまで、「復活が大切だ」「ミサが大切だ」ということを、まるでまくし立てるようにして申し上げましたが、復活が大切だとはどういうことなのかをお話ししたいと思います。
復活とは、「神さまが共にいてくださるという神秘」との出会いだと思います。初めもなく終わりもないいのち、永遠のいのちでいらっしゃる神さまは、わたしたちと共にいてくださるお方です。一人の例外もなく、神さまは共にいてくださるのです。その神秘に出会って、永遠のいのちを受け継ぐことが、復活です。しかし、わたしたち人間には、「神さまが共にいてくださるという神秘」に出会う力が欠けています。「神さまが共にいてくださる神秘」そのものよりも、神さまが共にいてくださるという「手応え」とか「実感」とか「証拠」とか「納得」とかに引き寄せられてそこで止まってしまい、「神さまが共にいてくださる神秘」そのものに入れないのです。しかし、イエスさまはそれらすべてのものを放っておいて、「神さまが共にいてくださる神秘」を一番に選んでくださいました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)と言って、その神秘の中に入ってくださいました。完全にすべてを神さまお返しして迎えた死、それが復活という、出会いと一致の出来事として実ったのです。そしてこの実りは、イエスさまただお一人だけのものでなく、信じるすべての人に、もたらされるものとなりました。すなわち、キリストを信じて洗礼を受けるものに聖霊の恵みが注がれ、聖霊の交わりを通して、イエス・キリストご自身が、わたしたち一人ひとりの内に立たれるのです。「復活する」を表すギリシャ語の(アニステーミ)は、「立つ」という意味の言葉です。わたしは復活のキリストが、わたしたちの顔の向きと同じ向きで立ってくださっているのだと思っています。だから、わたしたちも立ってくださるキリストの顔の向きに、自分の顔の向きを合わせなくてはならないのだと思っています。キリストが共にいてくださるのですから、その眼差しに入って、わたしたちも人を見る。キリストが共にいてくださるのですから、その行いに入って、わたしたちも人に行なう。キリストが共にいてくださるのですから、その愛に入って、わたしたちも人を愛する。わたしたちがするのですが、でもそれはキリストがなさるのです。だから、もし復活がなかったら、また復活という真実と出会わなかったなら、それこそ、冒頭の先輩の言葉ではありませんが、「何の意味もない」のです。
キリストを信じるとは、「してはいけないこと」「しなければならないこと」のリストを、ポンと手渡されることではありません。そうではなく、神さまとの一致そのものであるキリストのいのちが、わたしたち一人ひとりの中に立ってくださることです。そして、そのいのちに出会って生きることです。キリストは出会う人の中に、神さまがおられることを見ました。だから、わたしたちも出会う人に「神さまがあなたと共におられます」と祈ります。もし、祈らないなら、どうなのでしょうか、共にいてくださるキリストの口を塞いでいるのか、あるいは眠らせているということになるでしょう。土の中に埋めたタラントン(マタイ25・25参照)のようにしてはならないのです。人に「神さまがあなたと共におられます」と祈って、「儲け」を出さなくては。
とりとめがなくなりました。「ご復活は大切」です。主のご復活、おめでとうございます。
