教会誌「こころ」2015年6月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
もう一月程前のことになりますが、ゴールデンウィーク中の5月4日(月)「みどりの日」に、お休みをいただいて出かけることにしました。どこに行こうか迷いましたが、都電に乗りに行くことにしました。昭和40年代までは、都内を網の目のように走っていた都電ですが、現在は一路線を残すのみです。「早稲田」から「三ノ輪橋」までを小一時間で結ぶ都電・荒川線は、かつては32系統・27系統と呼ばれていました。わたしは小学校5年生の時に、学校の先生に内緒で(学校は江東区の下町です)クラスの友達と3人で、この都電に乗りに来て以来でしたので、ちょっとわくわくしていました。
六本木から地下鉄に乗り、早稲田で降りて、新目白通り沿いにしばらく歩きますと、突然、道の真ん中に都電・荒川線の始発駅である、「早稲田」の停留所が見えてきます。発車時刻を待って停車している電車に乗り込みますと、休日のせいか、小さいお子さんを連れた家族連れの姿が目立ちました。またこの路線が、王子権現のある「王子駅」、「鬼子母神」、また巣鴨のとげぬき地蔵の最寄り駅である「庚申塚」などの停留所を結んでいるせいか、お年寄りの数もとても多かったのです。4のつく日は縁日ということで、買い物袋を下げて乗ってこられる地元のお年寄りと、電車に乗りに来た小さい子ども連れの家族で、まさに満員電車になっていました。密集する家と家の間をかすめるようにして走る都電の車中は、まるで談話室の中にでもいるかのようで、あけすけな感じの生活の会話で溢れていました。しかし、途中「荒川遊園地前」という停留所で、子ども連れの家族がみんな降りていってしまうと、車内は急にがらんとしてしまいました。
終点の「三ノ輪橋」で降りると、すぐそこが三ノ輪橋商店街の入口になっていました。懐かしい昭和の香りの漂うアーケードの下を歩くと、両側のお店から陳列の商品が通路にせりだしているので、のぞきながら歩くお客さんの足も、自然とゆっくりになっていました。和菓子屋さんのショーケースに、カレンダーの裏紙でしょうか、墨汁で「柏餅」と書かれたのが貼られていたので、「1個買えますか?」と聞くと、「ええ、いいですよ」と気持ちのよい返事が返ってきました。そして「ハイッ」と柏餅を一つ、何にも包まずに、そのまま手渡してくれました。柏餅を直接手渡されると、「歩きながら食べてって」と言われているようで、自分はローマンカラーをしたおじさんでしたが、なんだか子どもに戻ったような気分で、楽しくなってしまいました。
商店街を出てからは、汗ばむような日射しの中を、日暮里にある谷中墓地に向かって歩きました。小一時間も歩くと、「上野桜木」という風流な名称の交差点に出ます。そこから墓地に向かう道に折れると、墓参目的ではない観光客の方が、下町情緒を求めて、結構大勢いらしているのに驚きました。
谷中墓地では、明治時代になって禁教令が解かれてからも、キリスト教徒の埋葬が許可されたのは、墓地外縁部に限られていました。それで古くからあるカトリックの教会墓地も、崖下の、JRの線路脇の、細長い敷地の中に造られていました。昨年亡くなったわたしの父のお墓もその一角にあり、伸び始めていた雑草を抜いて、お祈りをしました。そこには、先に亡くなった、父の兄弟たちの名前も刻まれています。十字架形をした古い方の墓石に「戦没者」とあり、アンナ稲川静江、ルドビコ稲川東洋の名がありました。この二人は昭和20年の3月9日から10日にかけての東京大空襲の際に亡くなりました。静江さんが小学校6年生、東洋くんが3年生だったということです。6人兄弟であった父の、一番下の妹弟二人になります。空襲で亡くなった二人の人がいるということは、子どもの頃から聞いてはいました。しかし、ある時から急に、東洋くんはわたしにとって身近な存在になりました。
以前のこと、もうわたしが司祭になってからのことですが、父に、「東洋くんって、どういう子だったの」と聞いたことがあります。父は召集を受け、海軍の整備兵として働いておりましたが、ある時のこと、北海道の基地に移動の辞令があり、午後に上野駅集合という命令が出て、半日の自由時間ができたのだそうです。それで、東京江東区にある、父の実家に顔を出したと言います。その時に家にいたのは、父の母と東洋くんでした。父はその時、軍隊の配給で出たお煎餅を東洋くんにあげたのだそうです。お煎餅に砂糖がかかっているようなものだったそうですが、東洋くんは、「ええ、兄ちゃん、これ、もらっていいの? ありがとう、本当にいいの? ありがとう、ありがとう」と繰り返し「ありがとう」を言って、感謝したのだそうです。父は、「あんな、お煎餅に砂糖がかかっているくらいのものだったのに、東洋っていうのは、あんなに何回もありがとうを言ったんだよなあ」と感慨深げに話していました。父が東洋くんに会ったのはそれが最後だったということです。もともと、父は東洋くんと一回りも年が離れていて、父は小学校を出るとすぐに、川口の鉄工場に奉公に出てしまったので、東洋くんと一緒に生活したことは、殆どなかったのではないかと思います。そんな東洋くんがお砂糖のかかったお煎餅一枚に、何度も、ありがとう、ありがとう、を言った姿が父の印象に深く残っていたのだろうと思います。その話を聞いた時、わたしは、自分の中に東洋くんが立ったと思いました。昔からわたしは自分の中に、何か「感謝をする心」がある、と思っていました。その時、「ああ、それは東洋くんの感謝だ」と思いました。その時から、わたしにとって東洋くんは、とても身近な人になりました。わたしの中で「感謝を生きてくださる方」となったからです。
谷中墓地から、更に上野公園まで足を延ばしました。午後の日射しはいよいよじりじりと照りつけ、初夏のような気候となりました。上野動物園の入口は人込みで溢れ、上野公園の園内も、沢山の家族連れで賑わっていました。不忍池には、足漕ぎのスワン形ボートと、手漕ぎボートが混じり合って浮かび、それはちょっと滑稽なほどの過密ぶりで、池全体を埋めつくしていました。木陰でお弁当を食べる家族。眠ってしまってずっしりと重たくなった赤ちゃんをおんぶしている若いお父さん。ぐずっている子どもに、しゃがんで何か言い聞かせているお母さん。おでん店の屋台で一杯ひっかけているオジさん達。みんな、一人ひとりに神さまが共にいてくださる。一緒の向きで生きてくださっているのです。本当にありがたいことです。
上野駅からは電車に乗って、まだまだ日の高い内に教会に戻り、今日は何を作って食べようかなあと考えるのも楽しいことでした。2万歩くらい歩けましたし、沢山の人の顔も見て、とてもよい半日旅となりました。
雑駁な巻頭文にお付き合いいただき、ありがとうございます。
