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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2015年 12月 6日(日曜日)

沈黙の意味について考えてみました

教会誌「こころ」2015年12月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

先月号のこの場(巻頭言)に、「今年の11月29日(待降節第一主日)から、『ミサ典礼書の総則の改訂版』が使われるようになる」ということを書かせていただきました。
その中の「ミサ全体に関する留意事項」に、

【沈黙】
・沈黙は、祭儀への行動的参加の一つ。
・ミサ中だけでなく、ミサ前、ミサ後の沈黙が守られるように配慮する。

という項目がありました。そこで今回は典礼や教会での「沈黙」ということについて、考えてみたいと思います。

沈黙とは文字通り「黙ること」「口をきかないこと」ですが、教会が求める沈黙とは、ただ物理的に声を発しないだけのことではありません。図書館の学習室などでは、おしゃべりは厳禁で(場所によって違いはあると思いますが)ちょっとでも話そうものなら、「キッ」と睨まれてしまいます。とにかく「声や音を出さないこと」がそこでの第一番の要求だからです。それは、「しーん」としているけれど関係性の乏しい、ちょっと冷たい沈黙です。しかし、教会が求める沈黙は、これとは違います。なぜなら、教会の求める沈黙の第一番の要求は、「声や音を出さないこと」ではないからです。教会の沈黙の一番の求めは、そこに集まる皆が「神さまの前にいること」「神さまと共にいること」だと思います。お互いが、「すべての人と共におられる神さま」を認め、「一人ひとりの内におられる神さまの真実」を真実として認め、祈り、尊ぶこと。それが教会の沈黙の一番の求めです。
ですから、教会が沈黙を考える時には、この「第一番を第一番とする」ということを、いつも思い出さなくてはならないと思います。そして、「そのことにこそ心を砕かなければならない」のだということを、いつも確認しなければならないと思います。そうでないと、そこがあたかも自分の席であるかのように、「二番目」のことが、ひょっこりと「第一番の座に座り込んでしまう」ということがあるからです。そうするとその沈黙は、たちまち「図書館の学習室の沈黙」になってしまいます。相手の内におられる神さまの真実に目を向けるよりも先に、相手を「キッ」と睨むようなことになるならば・・・、それは教会の求める沈黙ではありませんね。教会の沈黙は、「ただ黙っていること」、「音を出さないこと」ではありません。お互いの内におられる神さまの真実の前に、お互いが「お留守」にならずに、目覚めて、互いに「居るようになること」それが求めの第一番です。

共におられる神さまの真実は、肉眼の目には見えません。その真実を受取り合い、認め合うためには、日常生活の饒舌は不要で、却って妨げです。必要なのは、「神さまがあなたと共におられます」という祈りと、祈りに支えられた温かい眼差しです。その祈りと眼差しを第一番にするとき、それは必然的に、音や声の沈黙に向かっていくものであるかもしれませんね。

ミサの最中に、小さい子どもさんが、少し大きな声でお話し始めたり、赤ちゃんがむずがりだしたりすることがあります。そういう時、一緒にいる親御さんは気が気でないご様子ですね。そういう時、皆さん、一緒にお祈りしましょう。その子どもさんや赤ちゃんに心の中で「神さまがあなたと共におられます」とお祈りしましょう。親御さんにも「神さまがあなたと共におられます。大丈夫」とお祈りしましょう。親御さんもどうぞ、お子さんに、赤ちゃんに「神さまがあなたと共におられます」とお祈りください。心の中でお祈りください。それが教会の沈黙です。声を出さないことが教会の沈黙の第一の求めではないのです。

勝手な感想なのですが、わたしがミサの中で一番好きな沈黙は、聖体拝領後の沈黙です。それは大勢の人が一人の人になったように静かになる沈黙です。それはまた、さっきまで大騒ぎしていた子どもたちが、「ぱたっ」と寝てしまった後、部屋がしーんとした時のような、静かで温かな、いのちの存在感のたっぷりとある沈黙です。でも、聖体拝領後の沈黙の中には、不思議にいつも、赤ちゃんの柔らかい声や、小さい子どもたちの歌うような澄んだ声が響いています。この声も含めて、教会の沈黙だなあと、わたしは思っています。

とりとめもなく書きましたが、教会の沈黙は、「祭儀への行動的参加の一つ」です。共におられる神さまを認める祈りに支えられた、積極的なものです。ミサ中だけでなく、ミサの前後にも、この積極的な祈りに支えられた、ゆたかな沈黙が支配するような共同体へと成長し、成熟していきますように、お互いにお祈りいたしましょう。

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