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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2016年 2月 7日(日曜日)

「いつくしみの特別聖年」の四旬節

教会誌「こころ」2016年2月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

今年の復活祭は3月27日(日)で、「比較的早い年」です。(復活祭は年によって、3月22日~4月25日の範囲を移動します)それに連動して、今年は四旬節の始まりも早く、2月10日(水)が「灰の水曜日」です。この日から四旬節が始まります。麻布教会では、10時と19時にミサが行われ、ミサの中で額に灰を受ける「灰の式」が行われます。一人でも多くの方が式に与り、神さまに向かう心を新たにしていただきますよう、お勧めいたします。尚、灰の式は洗礼を受けておられない方も、お受けになることができますので、ぜひお与りください。

さて、前回も申し上げましたが教皇フランシスコの呼びかけで、2015年12月8日(火)に「いつくしみの特別聖年」が始まりました。「聖年」とは、教会が呼びかける回心と、罪の赦しと、新たな出発の時です。2016年11月20日(日)「王であるキリスト」の祭日までの一年が、その期間となります。教皇フランシスコは、この聖年の四旬節を、「神のいつくしみを祝いまた実践するための集中期間」として、「深く味わいながら過ごすように」と促しています。そして、わたしたちが「父のいつくしみのみ顔」をあらためて見いだすことができるように、四旬節の間「聖書を黙想すること」を強く勧めています。特別聖年公布の勅書の中で教皇は、キリスト者の生き方についての教えとして、「仲間を赦さない家来」(マタイ18・21-35)のたとえを取り上げています。このたとえの中心的メッセージは『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか』(同18・33)というもので、まさに「いつくしみの特別聖年」の中心的メッセージそのものです。そこで今回は、教皇の勧めにしたがって、このたとえを少し皆さんと一緒に黙想してみたいと思います。

ある時、ペトロがイエスのところに来て、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と言いました。するとイエスは、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのです。おそらくペトロは「無理だ!」と思ったでしょう。それでイエスは、「仲間を赦さない家来」のたとえを話されたのです。これは「赦すのが難しい」「無理だ」と思ってしまうわたしたちに、今日イエスさまが語りかけてくださっているたとえです。

「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れてこられた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人ひとりが心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

「自分は赦してもらったのに、人を赦さない。」・・・これが「不届きな家来」の不届きのゆえんです。しかも赦していただいた金額の大きさを考えると、この家来の「不届きさ」は更に倍加されるように思います。わたしたちに馴染みのない貨幣単位なので、まず確認しておきましょう。1タラントンは、6,000デナリオンです。ですから、1万タラントンは6,000万デナリオンです。そして1デナリオンは、平均的な1日分の給料といいますから、この「不届きな家来」が帳消しにしていただいた額は、6,000万日分の給料。年に換算すると16万年分の給料です。とても返しきれません。それで、主君は憐れに思って家来を赦し、借金を帳消しにしてやりました。しかし赦された家来は、仲間の100デナリオンを赦さなかった・・・。「赦すべきだ!」とだれもが思うはずです。しかし、赦さないこの不届きな家来とは、「七の七十倍までも赦しなさい」と言われて、「無理だ!」と言ってしまうあなたのことなのだよ、というのが、このたとえ話のミソになっています。

「主人の赦し」・・・16万年分の給料の赦しとは何でしょうか。わたしは、「神さまがわたしたちと共におられる」という「神の赦し」のことだと思います。わたしたちは、神さまに共にいていただく資格などないのです。でも一緒にいてくださる。これが「神の赦し」です。では、仲間に赦さずにいる100デナリオンとは何でしょうか。それは、仲間の中に「神さまが共にいてくださる」という「神の赦し」の真実があることを、認めないわたしたちの有り様だと思います。たとえばなしの中で、不届きな家来は、仲間を赦さず、「その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」とありました。なぜ、牢に入れたのか不思議に感じるところですが、当時は財産を土の中に埋めて管理しましたので、「お前が、隠している財産のあり場所を吐くまで、牢から出さないぞ」という意味だと考えられます。「相手が謝って来ないうちは、絶対に相手を赦さない。神さまが共におられるなどと、決して認めない」ということが、もしあるならば・・・、まさに「不届きな家来」とはわたしたちのことなのです。「神の赦し」と「人間が求められている赦し」とは違います。「神の赦し」とは、わたしたちに悪いところがあっても、罪があっても、「神さまが共にいてくださる」ことです。

一方、「人間が求められている赦し」とは、たとえ相手に、自分の目に良くないと感じられる点があっても、行いがあっても、「神さまが共にいてくださる」という「神の赦しの真実」を認めることです。「認めるだけ」です。神さまが共におられると、感じなくても、思えなくても、納得できなくてもいいのです。そんな相手に「神さまが共におられる」と認めるだけでよいのです。「神さまがあなたと共におられます」と心の中で認め、祈るだけでよいのです。そうするならば、「相手が謝ってくるまでは絶対赦さない。牢に閉じ込めて、苦しみを与えてやる」ということにはならないのです。そして、たとえが教えているもう一つのことは、「もし赦さないなら、天の父も同じようになさる」ということです。しかしこの言い方は一つの方便です。相手の中に「神さまが共におられる」という真実を認めない時、わたしたちは「自分の内に共にいてくださる神さま」の真実を認め得ない、「牢」に閉じ込められてしまうのです。相手の中に、神を認めない「シャットアウト」が、自分の内におられる神さまとの関係をも「シャットアウト」してしまうのです。「そうであってはならない」。それがイエスさまの教えです。

『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか』

神さまはわたしたちと共におられます。だから、わたしたちも仲間の内に、神が共におられると認めて祈りましょう。少し長くなりましたが、特別聖年の四旬節に、聖書の黙想の入口を話させていただきました。

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