教会誌「こころ」2013年5月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
風薫る五月、聖母聖月を迎えました。五月はマリアさまの月。そのように習慣づけられたのは18世紀頃のことと言われています。ご復活の喜びの季節であり、(北半球では)一年で最も美しく花が咲き揃うこの月が、聖母マリアに捧げられることになったのは、とても自然なことのように思えます。わたしたちも、自然現象の美しさに目を向けることを通して、それらをお創りになられた方への賛美に入っていくことができるように、心を留めてこの月を過ごしたいと思います。
わたしは「聖母マリアへの祈り」(現在は「アヴェ・マリアの祈り」昔は「天使祝詞」)は、とても好きな祈りで、いつも唱えている祈りですが、祈り始めることになったきっかけがあります。わたしは神父になる前に9年間、公立の小学校の教員をしていましたが、20代の頃のことです。わたしは本所教会に毎週通っていましたが、その時分、本当に「祈り」ということについて求めがあったのでしょう。主任司祭の下山正義神父さまに「神父さん、どのように祈ったらよいのですか?」と聞いたのです。すると、下山神父さまは「普通に祈ればいいの!」とおっしゃいました。その時、(その「普通」っていうのが凡人には難しいんだけどなあ・・・)と思った記憶があります。そして次に思ったのは、(じゃあ、聖パウロが「いつも祈っていなさい」と言っているから、いつも「めでたし」〈天使祝詞のこと〉を祈っていればいいのかな)ということでした。その時から、「のべつ幕なし式」に「めでたし」の祈りを祈ることになりました。
職場の学校でも、子どもがテスト用紙に向かっている時などは、教室にいる40名の頭の上に、端の子から順に「めでたし」の祈りを一つひとつかけていきました。たこ焼きの鉄板に、一個一個生地を注いでいくような要領です。その祈りは、その子に向かって心の中で「めでたし」を唱えているだけですから、「考えてする」ことではありません。でも、ふと気がつくと集中力が途絶えて、祈りが「止まってしまっている」のです。気を取り直して、途絶えてしまったあたりから、また子どもの頭に祈りを注ぎ始めます。そんなことを続け、くり返していく内に、次第に祈りは、BGM(バックグラウンドミュージック:背景に音楽がずーっと流れていること)みたいになっていったのかなと思います。でもその頃、自分がしていることの意味は全く分かりませんでした。子どもに向かって、聖母マリアへの祈りを注ぐこと、「めでたし、聖寵満ち満てるマリア、主御身と共にまします」と祈り続けることが、何であるのか全く分からずにしていました。では、今は分かっているのか? というとそういうことでもないのですが、今は聖母マリアへの祈りを唱えることの意味を、もっと身近に受け取るようになりました。
聖母マリアへの祈りは、マリアさまに呼びかける祈りです。マリアさまとは天使が告げた「主があなたと共におられます」(ルカ1・28)という神秘を、だれよりも深く受け取って生きた方です。そして、その神秘を深く受け取るとは、「共にいてくださる主と、共に生きる者になる」ということです。イエスさまとは、人間の中に神の似姿があることを見てくださった方です。だからその方と「共に生きる」とは、出会う相手の中にある、神の似姿に目を向ける者になる、ということです。マリアさまは、イエスさまの眼差しに結ばれて、出会う人の中に「神さまが共におられる」神秘を、見てくださった方だと思います。マリアさまに呼びかけ、祈る時、わたしたちはマリアさまに結ばれます。そして、マリアさまを通して、イエスさまの眼差しに結ばれます。イエスさまの眼差しを通して、出会う相手の中にある、神の似姿を見るという、神の業に結ばれることとなります。これが、聖母マリアへの祈りをすることの意味ではないかと思います。聖母マリアへの祈りを祈ると、それがバラの花となり、聖母マリアに現れて、その頭上を飾ったという、13世紀頃の美しい言い伝えがあります。それがロザリオ(「ロザ」はバラ)の語源となったということです。
わたしたちも、この聖母月に、一人でも多くの人に、そして一つでも多くの祈りを捧げることができますように、心を留めたいと思います。その時、目に見えないけれどその人の上に「神さまが共におられる」という、神秘の、そして真実の花が確かに開いていくのだと思います。一緒にお祈りいたしましょう。
