教会誌「こころ」2016年10月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
8月29日(月)~9月2日(金)まで、今年の夏休みをいただきました。毎年夏休みには、同級生の神父と一緒に山登りをすることになっています。一緒に登ってくれるのは、広島教区の服部大介神父さんで、今は広島教区の事務局長と、尾道教会の主任を兼任しています。25年前に神学校に入った時、同期は6名だったのですが、神父になったのはこの二人でした。
二人が登りたいと思っている、2,500mを超えるような山は皆、関西より東にあるので、結局彼が、毎年広島から東京まで出てきてくれています。登山の計画は専らわたしが立てるのですが、地域的に偏らないように、A年は「北アルプス」、B年は「八ヶ岳」、C年は「南アルプス」の中から選ぼうと、なんとなく考えて来ました。服部神父さんが、「どうせ登るなら百名山(深田久弥さんという登山家が選んだ百座)がいい」と言うので、取り敢えず、その中から選ぶようにしています。今年はC年(ルカ福音書を読む年)なので、本来は南アルプスの年なのですが、登りやすい山は登ってしまったので、北アルプスの中から選び、「鹿島槍ヶ岳」(2,890m)に登ることにしました。しかしながら、今年は台風の当たり年なのでしょうか、一度に三つの台風が現れ、しかも一度西に去ったのに再び東に進路を変えて戻ってきた台風9号が、まさに、わたくしの今年の夏休みの全期間に、強い影響力を持って居座るかのような予報となりました。当初は関東直撃のような進路予想で、「今年もダメか」(昨年も台風!)と思いましたが、少しずつ進路が北寄りにずれていったので、予定通り出かけて、様子を見ることにしました。
29日(月)は長野県北部にある、信濃大町駅(黒部ダムへの入口)の駅前で宿を取りました。本来なら翌日、30日(火)の早朝から登山の予定でしたが、台風のため30日は足止めとなり、予定を一日ずらしての出発となりました。31日(水)は台風一過の好天でした。扇沢という登山口から4時間程登ると稜線上に出ます。オレンジ色の三角屋根が見えてくるとそこが種池山荘(2,450m)という山小屋で、そこからすばらしい眺めを得ることができました。景色をお見せ出来ないのが残念なのですが、雪渓の残る剱岳、立山、針ノ木岳、薬師岳などの青々として堂々たる山容が目の前に広がっていました。昼食を取ってから、爺ヶ岳(2,670m)に登り、更に次に目指す山との間の鞍部にある冷池山荘(2,410m)まで降りると、そこがその日のわれわれの宿泊地でした。宿泊の手続きを済ませてから、小屋前のベンチに腰掛けて、生ビールで乾杯をしました。少し暮色の始まった西の空を背景に、眼前にくっきりと全容を現している鹿島槍ヶ岳を眺めながらのビールは、最高でした。
さて、翌日は鹿島槍ヶ岳を往復して、来た道を戻り、種池山荘に宿泊・・・の予定でしたが、いつも気の早い服部神父さんが「そのまま一気に降りよう」というので、そうすることにしました。毎年わたしは、「山の上で2泊」の計画を立てるのですが、必ず1泊に短縮されてしまうのです。おかげで今年の2日目は10時間くらいの行程になり、四捨五入すると還暦になるわたくしにとっては、ややハードなスケジュールとなりました。
山を降りて、松本駅まで出て、駅前の居酒屋でまた飲みました。よく歩いたね、と言って乾杯して、今回の山行を振り返りました。時折、テーブルの上に置かれた服部神父さんのスマートフォンがブルブルと震えると、何かニュースが入るのでしょう。画面を見るなり、「おっ、広島が勝っとる」と言っています。「今年は絶対優勝じゃ。25年振りやぞ!」と、それはもう嬉しそうです。25年前、神学校に入った年は、那須の山の中にある「ガリラヤの家」(神学校の初年度養成施設)で一年を過ごしました。知的障害者の支援施設「光星学園」(現在は「マ・メゾン光星」)の園の人たちと一緒に農作業をしたりして過ごしたのです。その年、たしかに広島カープが優勝しました。その当時の服部神学生が「広島優勝」の記事の載ったスポーツ新聞を買うために、ガリラヤの家の所長神父さんにお願いして、白河駅(最寄り駅:車で30分)まで連れて行ってもらったのを覚えています。「あれから25年」が経った・・・。野球に特に興味関心のないわたしですが、確かに近づいているという広島優勝(9月10日に実現しました)ということが、何か特別な感慨を持って記憶に残りそうな予感がしました。
すると突然、服部神父さんが「なあ、わしらは叙階20年目になる訳だが、何か、『このことは分かった』というようなものはあるんか?」と言いました。わたしは「いつも同じことしか言わないけれど、神さまが一緒にいてくださる、ということが一番のことだと思うようになった。すべての人と共におられる、ということが『分かった』ことではないかと思うよ」と話しました。すると服部神父さんは、ちょっとつっかかるような言い方で「それじゃあ、神さまが一緒にいてくださるから、それで『大丈夫』なのか。何もせんと(何もしないで)、それでいいって言う訳か?」と言うのです。わたしは「神さまが一緒にいてくださるから、わたしがその人に『大丈夫だ』と言うのではない。わたしはそんなことを言わない。神さまが一緒にいてくださることを受け取ったならば、一緒にいてくださる神さまの真実と一緒になって、今度は人に、『神さまがあなたと共におられる』と言わなくちゃいけないのだと思うよ。人に『神さまがあなたと共におられます』と祈る時、一緒に祈ってくださる神さまご自身が、その人と一つの体になって支えるのだと思うよ。人が人に『大丈夫だ』と言うのではない。人に『神さまが共におられます』と告げる時、そう告げた人と一緒にいてくださる神さまご自身がその人を、ご自分のいのちで支えるのだと思うよ」と話しました。服部神父さんは、「そうか、そういう考え方は、今までしてなかったな。おもしろい、と言っては悪いが、分かった。今度そういう風に考えてやってみよう」と話していました。わたしは5日目にして、やっと話すべきことを話すことができた、と思いました。神父同士、神さまの話しなどそれこそ専門分野だろうと思われるかもしれませんが、近い間柄だと却って話しにくいことがあるように思います。台風のお蔭で、まる一日一緒にいる時間が延びたので、一番大事な話しにまで、つながることができたのかな、と思いました。
翌日金曜日の朝、駅前で簡単な朝食を取り、松本駅の改札で握手をして別れました。「来年の行き先はあんたが決めてくれていいよ」と言って、服部神父さんは名古屋方面に向かう、7時何分かの電車に乗るために、ホームへの階段を降りていきました。一方わたしは、次の「スーパーあずさ」まで小一時間あったので、駅のホームのベンチに座り、今回の山行記録を整理していました。家に着くまではまだ休暇と決めて、新宿までの列車の旅を楽しみました。
二十五年来の友人は、全くタイプの違う人ですが、たまたま神学校で会わせてもらいました。いつも一緒に山に登ってくれることを、本当にありがたいなあと思っています。
雑駁な文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
