教会誌「こころ」2016年9月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
8月8日(月)~10日(水)まで、港・品川宣教協力体の中高生会の夏合宿が行われ、今回は横浜教区の大磯教会の施設をお借りしました。教会はJR大磯駅から歩いて15分位の所にあり、閑静な住宅地の一角に残った松林の中にありました。白い十字架が中央に据えつけられた、観音開きの鉄扉から入ると、奥には一面芝生が広がっていて、その真ん中に石畳風の道が通っています。道の奥正面が、戦前の建物と思われる平屋の司祭館・信徒会館。右手奥に、瓦葺きの聖堂。そして左手には何とテニスコート!があります。1950年にアイルランドの聖コロンバン会によって創立された大磯教会は、敷地もかなり広く、素朴でのどかな佇まいの、皆がほっとできる空間でした。
今回は中高生の参加が7名と少なく(麻布からは参加がなく残念…涙)12名のリーダーと2人の神学生の、合計22名で行ってきました。初日は海で泳ぐプログラムだったのですが、台風5号が最接近していた影響で大荒れ。もちろん遊泳禁止でしたが、防波堤沿いの200mくらいの幅のエリアに限り、監視員から「くるぶしまでなら水に浸かってもよし」というお許しが出ていたので、複数のパトロールに見守られながら、足元を浸す程度の水遊びをしました。
翌朝は台風一過の晴天となりました。散歩を兼ねてアオバト(丹沢からミネラルを補給する為に海水を飲みに来ると言うことです!)の飛来地である照ヶ崎まで歩いて行きました。しかしその日は残念ながら飛来がなく、アオバトを見ずに帰ることになりました。早朝から真夏の日射しが照りつけていたので、途中一人の女の子が疲れて気分が悪くなり、立ち止まってしまいました。何か水分を取らせたかったのですが、朝の散歩だったので皆ラフな格好でお金も持っていませんでした。わたしは自動販売機の下を覗いて「お釣りが落ちていないかなあ」と探したのですが、当然のこと、そう都合よく落ちてはいませんでした。日陰で10分程休むと、女の子も少し楽になったようだったので、海岸沿いの道をまたみんなでゆっくり歩き始めました。すると一人の中1の男の子が「そうだ!」と言って、砂浜の方に走って行ってしまいました。この子は元気で、昨日もすぐ波打ち際まで行ってしまう子だったので、すぐリーダーが後を追っかけて行くのが見えました。しばらくするとその男の子は走って戻って来ました。なんでも、パトロールの詰め所に行って「具合の悪い女の子がいるので、水を飲ませてください」と言いに行った、と言うのです! 程なく真っ黒に日焼けしたパトロール(監視員)の方が前の方から走ってきて、「具合の悪い方はどなたですか」と言いました。女の子に「気分はどうですか」「息苦しくはありませんか」等々、いくつかの質問をした後、心配するような状況でないことを確認した上で、「OS-1」という経口補水液のボトルを渡し、「ゆっくり飲むようにしてください。お大事に」と言って去って行かれました。わたしはその時、すごく感心して感動してしまいました。水分を必要としている女の子がいて、わたしがしたことはと言えば、自動販売機の釣り銭受けを探ったことだけでした。しかし、その男の子はパトロールの詰め所に走ったのです。そして「水を飲ませてください」と言った。しかも、その子が砂浜の方に走って行ってしまってからも、我々一行はゆっくりと教会に向かって移動していましたから、現在位置は刻々変わっていました。それなのにその子は「一行がどこにいるのか」を、パトロールにきちんと説明出来た、ということです。これは簡単そうに見えて、実は結構難しいことです。「大したものだなあ。立派だなあ」と感心しながら、早朝からじりじりと日射しが照りつける帰り道を、教会に向かって歩きました。子どもたちはと言うと、OS-1を皆で少しずつ回し飲みしていました。
今回の夏合宿のしおりの表紙には、“テーマ「 」”と書かれていました。そして、その下に、「空欄ではありません。見えないですか? リーダーには見えています。君たちにも合宿が終わる日には見えてくると思います。なにがテーマになっているか注目しながら3日間過ごしてみてください!」と但し書きが続いていました。後で聞くところによると、リーダーたちの考えたテーマは「知り、挑戦し、乗り越える」というようなものだったようです。
最終日の午後、施設の掃除もすべて済ませ、荷物もまとめて、あとは帰るだけにしてから聖堂に移動し、数名の大磯教会の信徒の方々と一緒にミサをお捧げしました。選ばれた福音の箇所は、「成長する種」のたとえ、でした。
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ4・26-29)
わたしは皆さんに、「この話は、どうしてそうなるのか、その人は知らない、と書いてあるけれど、実は『知っている』という話だと思うよ」と話しました。「その人は、種がどうしてそのように成長するのか知らないけれど、知らなくても、土がそのように成長させてくれることを『知って』いて、信頼して種を蒔いているのだ」と話しました。「わたしたちが本当に知るべきこととは、神さまがわたしたちを成長させてくださることを『知って』信頼して自分を委ねて生きることだと思います」と話しました。
自分がどのように成長するのかなんて、だれも知りません。でも、そのことを知らなくても、周りの人との関わりの中で、必ず神さまが成長させてくださることを『知って』、信頼して自分を開いていくことができるのだと思います。「知り、挑戦し、乗り越える」ことが出来るのも、みんな神さまがよくしてくださることを『知っている』からです。砂浜に向かって走り出した男の子も、頭でではなく、何か心で『知っていた』のだろうと思います。そんなことを学んだ今年の夏合宿でした。
