教会誌「こころ」2016年8月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
わたくしは昔、千葉県の習志野市で公立の小学校の教師をしておりました。9年間働きました。最初の2年間は、教員という職務に早く慣れるためということなのでしょう、4年生・4年生と続けて同じ学年を受け持たされました。大学を出たばかりの23歳が、いきなり40人の学級をポンと任されたのですから、今考えると、空恐ろしいことだと思います。受け持たれた子どもたちにとっても、大変なことだったはずです。でも、そこが「若さ」ということの特権なのでしょうか、そんなに大変なことだとも思わずに、教員の世界に飛び込んできたのです。
2年目か3年目くらいだったでしょうか、わたしはいつも心の中で憤慨していました。「お前たちのことを思って、罰とか強制とかによってではなく、本当に大切なことを教えようとしているのに、どうしてオレの言うことが聞けないんだ!」そんな風に憤慨していました。当時、小学校では学年毎に集団行動する機会が結構ありました。そういう時、ちょっとでも整列するのが遅くなったりすると、「また5組かい!」「またアンタのクラスかい!」
などと、すぐ学年主任の女先生に言われてしまうのでした。そんな時、慣れた先生ですと「ハーイ、出来なかった罰~、腕立て伏せ10カ~イ」などと、明るく罰則を盛り込んで、言うことを聞かせたりすることも出来るのですが、わたしは今まで家庭の中で、たとえ冗談のような形であっても、「罰則によって何かを律せられる」という経験がなかったので、どうしても、罰によって何かをさせるということが出来ませんでした。それで学級に帰ると、子どもたちにいつも言っていました。「罰によって何かをさせられても、きみたちに何の意味もないでしょう? 罰をつければ、みんな簡単にそうするでしょう? でも、そんなことしても何の意味もないでしょう?」そんな風に口を酸っぱくして言っていました。でもまた、郊外学習の移動の時などに、ちょっとでも整列が遅れると、「また5組かい!」「またアンタのクラスかい!」と、言われてしまうのです。そんな時、いつも心の中で叫んでいました。(お前たちのことを思って、罰とか強制とかによってではなく、本当にするべきことを教えようとしているのに。罰でやらせれば、一発でできるのは分かっているのに。でもそんなことは何も意味がないでしょう。どうしてオレの言うことが聞けないんだ!!)と、心の中で、大声で叫んでいました。
そんなある時、一度、わたしの「心の中」で声がしました。それは、「そういうお前は、わたしの言うことを聞いているのかな?」という声でした。
わたしはその声に対して、即座に、「わたしもあなたの言うことを聞きますから、子どもにもわたしの言うことを聞かせてください」と答えました。その後、どうなったのかというと、結論から言うと、子どもたちは言うことを聞くようになりました。しかも、かなり劇的に「聞くようになった」のです。このことは、わたしにとって大きな「出来事」でした。
当時24~5歳であったわたしにとって、「わたしもあなたの言うことを聞きます」の「あなたの言うこと」・・・の内容は、「ミサに出ること」でした。なぜそう思ったのかは分かりませんが、そのことはわたしの中で、ポンと決まっていました。わたしは幼児洗礼で、両親と5人兄弟の7人家族。子どもの頃は、父が家族を教会に連れて行ったので、毎週欠かさずミサに出ていました。子どもにとって、ミサに出ることは退屈なことだったので、「出来れば行きたくない」・・・というのが本心でした。社会人になってからは、両親が行くので、まあ行ける時には行きましょうか、という感じでした。でも、この時から、自分の意志でミサに与ることになりました。そして、わかってきたことがあります。それは、「ミサが義務や強制などではなく、わたしたちのためを思って、神さまが、ただただわたしたちに、ご自分のいのちを与えようとしておられる」のだということでした。神さまは、人によって、その人に合わせていろいろな仕方で教えられるように思います。「わたしの教えられ方」について言えば、「わたしが人に言う言葉を通して、神さまがわたしにそう教えておられる」・・・という方式かなと思っております。
「またアンタのクラスかい!」と言ってくださった学年主任の女先生は、この文章では、それが全く表れていませんが、心から尊敬すべき愛あるお方です。先月、80歳になられたお祝いに呼ばれて、25年振りにお会いしました。かつての同僚も10名程集まり、殆どの方が校長や教頭を経て、定年を迎えておられました。そんな出来事がありました関係で、昔のことをふと思い出しました。
「そういうお前は、わたしの言うことを聞いているのかな?」
昔、そう言われたことは、今も言われていると思います。もちろん声は聞こえませんが、「わたしが人に言う言葉を通して、わたしに教えておられる方」が、いつもわたしにおっしゃっているはずです。
