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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2016年 7月 3日(日曜日)

「もっと深く」「もっといつも」「もっと一人ひとりと」

教会誌「こころ」2016年7月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

ちょっと以前のことですが、ある方に「神父になって、一番嬉しかったことは何ですか?」と尋ねられたことがあります。わたしはそう尋ねられて、「神父になって、一番嬉しかったこと・・・ですか?」「一番嬉しかったこと・・・」「嬉しかったこと」、「う~む」と唸って、長く考え込んでしまいました。なかなか答えが出て来ないのを見て、その方は、「嬉しかったというか、やりがいがあったとか、充実したとか、まあ、そういう意味のことです」と、少し質問の幅を広げられました。わたしはそう尋ねられても、更に「う~ん」と考えて、考えて、ちょっと上を向いて、(ああ、そうか)と出てきた答えが、「・・・葬儀を司式する、ということかもしれません・・・」というものでした。「神父になって一番嬉しかったことは」という質問に対して「葬儀を司式すること」という答えは、聞きようによっては「死神」みたいに思われる可能性のある(笑)回答ですね。でも、もし今、同じことを尋ねられたとしても、やはりわたしは、「葬儀を司式させていただくこと」が、自分の司祭の務めの中の特に「嬉しいこと」の一つであると、お答えするのだろうと思います。

一般的に「葬儀」と「嬉しい」は決して結びつかないことですので、読んで訝しく思われる方があるかもしれません。しかし、イエスさまが教えてくださった最も大切なことは、「死は滅びではなく、新たないのちへの門である」ということです。葬儀は、まさにそのことに直接関わる出来事なのだと思います。教会の葬儀は、この世の命を終えられた方が「新しいいのちに誕生されたこと」を、心を込めてお祝いします。わたしは教会の「葬儀」における、この「誕生」が、真に「誕生」として出会われ、祝われることを「嬉しい」と言っているのだろうと思います。

わたしは亡くなった方が、「新しいいのちに誕生された」ということを、とても身近な、具体的なことであると理解しています。亡くなられた方は、「わたしたちが知らない所」、「どこか遠く」に、「行ってしまった」、のではなく、より深く一緒にいてくださるいのちになられるのだと思っています。この世で生きて共にいてくださった時よりも、「もっと深く」「もっといつも」そして「もっと一人ひとりと」一緒にいるいのちになってくださるのだと思います。愛する方々は、この世で生きて共にいてくださった時は、顔と顔を合わせる向きで一緒にいてくださいました。しかし新しく誕生したいのちは、「一緒の向きで生きるいのち」となっておられるのだと思います。わたしは「好き勝手な言い方」で言わせていただいていますが、荒唐無稽なことを申し上げているのでしょうか。わたしは聖書が教えてくれていることをお話ししています。

イエスさまの弟子たちは、いつもイエスさまと一緒に行動していました。弟子たちは「主よ、あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13・37)とまで言っていました。しかし、十字架にかけられるためにイエスが捕らえられた時、弟子たちは、全員イエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、復活されたイエスが一緒にいてくださるようになると、その弟子たちは、死をも恐れなくなりました。それはイエスさまがこの世に生きておられた時よりも「もっと深く」一緒にいるいのちとなってくださったからです。

また、復活されたイエスさまは弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と言われました。「もっといつも」一緒にいるいのちとなってくださったのです。イエスさまが、この世のいのちに生きておられた時は、だれか一人の人とお話ししていたなら、次の人は順番を待って並ばなければならなかったでしょう。しかし、復活されたイエスさまは、おん父がイエスの名によってお遣わしになる聖霊によって、すべての人、「一人ひとりと」一緒にいるいのちとなってくださったのです。

エマオの弟子の物語(ルカ24章)では、二人の弟子たちのところに、復活されたイエスさまが来て、一緒に歩き始められました。でもそれがイエスだとは分かりませんでした。食事の時、イエスがパンを裂いてお渡しになった時、二人の目が開け「イエスだ」と分かりましたが、その姿は見えなくなりました。(同31節)「その姿が見えなくなった」のは、分かって「出会った」時、「一緒の向きで生きるいのち」となられたからです。そしてそのことに出会って、一緒に生き始めた時、弟子たちのいのちも新しくなったのです。

主イエスの復活は、いのちの出会いの物語です。理屈でなく、出会いの出来事なのです。主イエスが復活されたのは、「死は滅びではなく、新たないのちへの門である」という真実を告げ、その復活という真実にわたしたちを出会わせるためです。わたしは「復活」とは、イエスさまがこの世で生きて共にいてくださった時よりも、「もっと深く」「もっといつも」そして「もっと一人ひとりと」一緒にいるいのちになってくださったこと、そして、わたしたちと「一緒の向きで生きるいのち」となったくださったことだと理解しています。だから、葬儀の中で、亡くなった愛する方が、「もっと深く」「もっといつも」「もっと一人ひとりと」一緒にいて、「一緒の向きで生きるいのち」となっておられることを告げなくてはならないと思っています。そして、そのことに出会ったなら、わたしたちも、「その方と一緒に生きなくてはならない」のです。そして、わたしたちが亡くなった方と一緒に生きるようになるなら、それこそが「新しいいのちの誕生」です。この誕生は、亡くなられた方だけでは誕生できません。わたしたちが出会うことを通してはじめて真に誕生するからです。わたしはこの「誕生」が、真に「誕生」として出会われ、祝われることを「嬉しい」言っているのだろうと思います。

しかしながら、愛する方が亡くなられることは、本当に寂しく悲しいことです。そのことは言うまでもなく確かなことです。わたしも3年前に父を亡くしましたが、父は生きておられた時よりも、もっと深く、もっといつも、もっと一人ひとりと一緒にいて、一緒の向きで生きてくださっていると理解しています。そして、父は誠実な人だったので、わたしもその父と一緒に、誠実に生きなくてはならないと思っています。でも、いつかまた顔を見て会いたいと思っています。そしてそのことが「どのような形で実現するのか」は分かりませんが、必ず実現すると信じています。

「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」

ミサの中で毎回くり返されるこの言葉は、再会への希望の内に、この世で復活のいのちと一緒の向きで生きる、わたしたちの祈りなのではないかと思います。

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