教会誌「こころ」2014年12月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
ある方から「信仰宣言の中にある『からだの復活・永遠のいのちを信じます』というのは、どういうことなのでしょうか」というお尋ねを受けました。それに対して、わたしは次のようにお答えしました。
「からだ」というものは、「わたし」を「わたし」たらしめるものです。稲川圭三、というわたしは、稲川圭三という、わたしの「からだ」をもって、わたしです。「わたし」は、わたしのからだをもって、「わたし」であると言えます。ですから、「からだの復活」の意味の一つの側面は、「わたしが、わたしとして復活のいのちに入る」ということです。復活したとしても、「自分がだれだか、わからない」いのちとして復活するのではないのです。「わたし」として復活する。それが「からだの復活」の意味です。
おかしなたとえですが、ミックスジュースの話。イチゴと、パイナップルと、バナナと、リンゴをミキサーに入れて「ギャー」とかき混ぜると、ミックスジュースができます。香りを嗅ぐと、たしかに、いちごの香りがします。でも、ミックスジュースはもう、渾然一体となってしまっていて、イチゴだか、バナナだか、リンゴだか、パイナップルだか、なんだかわからないものです。わたしたちは、そんなものになってしまうのではありません。「わたしはわたしとして」復活のいのちに入るのです。だから、この世で「わたし」を大切に生きなくてはならないのです。この世でこの「わたし」を大切に生きなかったら、いつ生きるのでしょうか? 死んでも、「わたし」を生きることはできません。
さて、わたしたちは、この世で「からだ」をいただいていますが、死を超えて、永遠のいのちにはいると、「永遠のいのちのからだ」をいただきます。それは「神さまのからだ」のことです。そしてそれは、どんなからだであるか、今、わたしたちにはわからないのです。人間には人間のからだがあり、永遠のいのち神さまには、「永遠のいのちのからだ」があるからです。(Ⅰコリント15・35参照)この世でのわたしたちの「からだ」は、時と空間に規定されている「からだ」です。だから、今、「ここ」にいるなら、同時に「別の場所」にいることはできません。それが、「時の世」のわたしたちの「存在様式」であり、そういう「からだ」をいただいています。しかし、永遠のいのちに入れていただく時、「永遠のいのちのからだ」をいただきます。「永遠」とは、初めもなく、終わりもない、神さまのいのちの「存在様式」のことですから、わたしたちはそういう「からだ」をいただくということです。
さて、「神さまのおからだ」「永遠のいのちのからだ」とは一体どのようなものでしょうか。神さまというお方は、「天地万物の創造主」です。すべてのものをお創りになられたお方です。
ご存じでしょうか。多くの学者さんたちによって支持されている「ビッグバン」と呼ばれる仮説があります。それによると宇宙は138億年前に始まったと言われています。そしてその始まりとは、時間と空間の区別のつかない、一種の無の状態の中に忽然と生じた「点」であったということです。
それが極めて短時間に爆発的に膨張し、宇宙が形成された。そして現在も宇宙は広がり続けているのだそうです。
さて、わたしたちが神さまとお呼びするお方は、今話したことを「下敷き」にして考えさせていただくなら、その「点」のことでしょうか・・・? いえいえ、違いますね。その点をさえ、「お創りになられたお方」と言うことができます。138億年前に、宇宙、すなわち「時間」と「空間」が始まりました。そしていつかはまた、その「時間」と「空間」が原初に回帰するように、無くなる時が来る、とも考えられています。わたしたちが神さまとお呼びしているお方は、宇宙(時間)の始まりという「究極の過去」にも、既におられ、「今」おられ、宇宙(時間)の終わりという「究極の未来」にも、既にそこにおられるというお方です。神さまにとっては、「時間の初め」も「今」も「時間の終わり」も、みな、「ご自分の今」です。そしてわたしたちが神さまとお呼びしているお方にとっては、宇宙(空間)の果ても、その反対側の果ても、ご自分にとっての「ここ」です。それが、神さまというお方の「存在様式」です。そのようなお方の「わたし」という「おからだ」は一体どのようなものであるのか・・・? わたしたちには皆目見当もつきません。(Ⅰコリント15・42参照)しかし、神さまはそのような「永遠のからだ」を持った「わたし」というお方なのです。「神さまのからだ」がどのようなものなのか・・・、わたしたちには今はわかりません。しかし、わたしたちは、死を通して、そういう「神さまの永遠のおからだ」に結ばれた「わたし」となることを信じるのです。
「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」(マタイ25・21)
信じるといっても、どうイメージしてよいかさえ、わかりません。でも、神さまというお方は、ご自分のいのちの中にわたしたちが一致して、ひとつに結ばれ、一緒に喜ぶことだけを望んでおられるお方なのです。
「主人と一緒に喜んでくれ」(同21)
だから、そのことに信頼して、今日を生きる・・・これがわたしたちの信仰です。
わたしたちは、今日、目に見える世界に生きていて、それは、「時」と「空間」に規定されているいのちです。しかし、同時に、わたしたちはもう、既に、「時」と「空間」を超えた、「永遠」というお方のいのちに結ばれて生きている者です。だから、それがどのようなものかは、今はわからないのですが、でも、「信頼」して、今日を生きるのです。それが「からだの復活、永遠のいのちを信じます」という信仰宣言の意味する信仰の内容です。
会ってお話しすれば、もうすこしマシに話せるのですが、文字にすると、なかなか上手くいきません。でも、とりあえず、お話ししようと思うことを書きました。理屈っぽくお感じになるかもしれませんが、お話しいたしました。
待降節は、救い主の到来と、キリストの再臨を待ちつつ、信頼して「今日」を生きる日々のことです。この時期のテーマでしたので、皆さんにも手紙を紹介させていただきました。
