| 
教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2012年 12月 24日(月曜日)

「聖劇」は永遠のものがたり

教会誌「こころ」2013年1月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

麻布教会に来ましてから、幼稚園の子どもたち、先生方、保護者のみなさんにお話をする機会が増えました。クリスマスの近づいた先月には「聖劇」のことについてお話をする機会がありました。「聖劇」というのはイエス・キリストの誕生の出来事を劇にして祝うものです。幼少時にご自分も演じられた経験があるという方も、お子さんが幼稚園でヨゼフ様役を演じたとか、羊の役であったとかいう方も結構おられるでしょう。幼稚園の先生方であれば、配役のことでご苦労をなされることもあるでしょう。

さて、わたし自身の聖劇との関わりはというと、自分が1年間通った本所白百合幼稚園(出身教会の本所教会と隣接するカトリック幼稚園)で、おそらく博士の役を演じたと思われる(写真にターバンを巻いた姿が残っている)ほかは、神学生(司祭になるために養成を受けている者、通常6年間)の時に教会学校で子どもたちに聖劇をさせた、という記憶です。

神学生になると土日は司牧実習のために、必ずどこかの教会に派遣されますが、その主要な役割は教会学校の手伝いです。そしてクリスマスが近づくとクリスマス会のために聖劇の練習を始めなくてはなりません。聖劇は台本の作り方でいかようにもなりますが、基本的なところはワンパターンです。「劇なんかやりたくない」、という子どもや、「本番まで一回しか練習に来られない」という子どもたちまで含めて、何とか劇の形にするのに奔走するわけですが、(なんで毎年、こんな同じことをするのだろう)という思いもありました。でも、ある時、聖劇の中心にあるのは「永遠」なのだ! と気づいたとき、がぜん聖劇をする気持ちになりました。ご存じですか? 「永遠」。永遠とは時間の延長ではなく、「始めもなく、終わりもない」神さまのいのちのことです。だれに創られたのでもなく、だれにいのちを取り上げられることもなく、自らの存在の根拠を、自らお持ちである、唯お一人のお方のいのちのことを「永遠」と呼ぶのです。それは天地万物の創造主であられる方のいのちです。その「永遠」が、こともあろうに人間の中にある。・・・このことが聖劇の中心にあるものだと気づいてから、がぜんやる気になったのです。

天使は言った「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・10-12)

主の降誕・夜半のミサで読まれる福音の一節です。飼い葉桶に寝ている乳飲み子こそ、救いの「しるし」なのです。・・・これは一体、どういう意味でしょうか? 説明させてください。神さまとは、「わたしたちと共におられる」というお方なのです。例外なく、すべての人と共におられるのです。どんな時にも、共におられるのです。それは神の真実です。例外がありません。そしてその真実に出会うことを「救い」と言います。しかし、わたしたちはその真実、目に見えない真理に出会えません。でも、出会わなければならないのです。それで神は独り子をお与えになりました。「神が人と共におられるとはどういうことか」・・・「こういうことだ」・・・それが「イエスさま」というお方。イエスさまは、神が人と共におられるという真実の「しるし」なのです。このお方を信じ、このお方の前に頭を下げるのがクリスマスの礼拝の中心です。イエスさまの内に、神さまの永遠のいのちがあることを信じ、頭を下げるのならば、すべての人の前に頭を下げるのです。目の前にいる人の内に、「神さまが共におられる」という真実の前に、頭を下げることと、イエスさまの前に頭を下げることは、切り離すことはできません。それがクリスマスの礼拝の中心です。

聖劇では、誰が何の役をやるのか。教会学校では、本番まで「何もやりたくな~い」と言って、隅っこに寝ころがっている子どももいたりします。それでも本番ではひょっこり「やっぱりやる」と言ってリーダーをほっとさせたり・・・様々ですが、幼稚園などでは、「誰が何の役をするのか」に競争力が生じる場合があるのかもしれません。でも、何よりも大切なことは「永遠」です。どの役を演じる子も、そしてそれを見ている家族のみなさんも、とりまとめていく先生方もリーダーも、みな、永遠の子なのです。始めもなく終わりもなく、すべて、ただお一人の永遠というお方が留まり、宿っておられるいのちなのです。見る者も、演じる者も、永遠というお方の中で一つになること。それが聖劇というものがたりの出来事なのだと思います。そして演じた者も、見た者も、またそれぞれの家に帰っていきます。永遠というお方と共に帰って行くのです。演じた者も、見た者も、一人ひとりが将来、どんな道を歩んでいくのか。それが永遠といういのちにつながったものであるならば、安心の道を歩ませていただくのです。そして、いっしょにご飯を食べることの中にも永遠があり、いっしょ眠ることにも、いっしょに目覚めることにも、永遠があることを、いつも気づいて生きることができるならば、それこそ、本当の幸いということだと思います。

主のご降誕、おめでとうございます。

「あなたの中に、神さまの永遠がある。」

このことを祝わずに、クリスマスを祝うことは決してできません。身近におられるみなさんに「神さまが共におられる」。その真実を認め、祝う、まことのクリスマスの祝いを行なうことができますように、共にお祈りしたいと思います。

今週のお知らせはこちら 毎週土曜日更新

過去の巻頭言

Archive

お知らせ

Information

ミサの予定

Mass Schedule