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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2020年 5月 3日(日曜日)

今こそ主の復活を祝う

教会誌「こころ」2020年5月号より
主任司祭 ルカ 江部純一

主はまことに復活されたアレルヤ!

2月26日灰の水曜日のミサを終えた後から二カ月経つ。ミサは非公開(実質的に中止)。今年限りの特例とはいえ、ミサ本来の意味がはっきりと示される聖木曜日主の晩さんの夕べのミサは奉仕者も会衆もなく司祭一人で司式して献げるという異常事態になっている。その間に「麻布教会の皆さんへ」と題したメッセージをお届けした。まだまだ事態は終息せず長期化する様相なので、皆さんにはいっそうのお祈りを継続していただきたいと願っております。大司教はインターネットを通したミサを配信し、皆で心を合わせて祈るよう企図されている。今の時代の便利なものはよりよく利用したい。一方で、学校などでは人と人とが向き合って互いにやり取りすることができない形で授業が行われざるを得ない状況である。便利であるし、このような事態なので仕方がないとは思う。同時に、人との触れ合いや交わりを通して様々な思いがわき出てくるのであるから、触れ合いからやさしさを感じ取り、互いのやり取りから考えを深める、といったことができなくなっているのは寂しいことである。ミサは生(live)であり、生きているものである。だれもいない聖堂で復活賛歌や続唱を一人で歌っていると、目の前にいない皆さんとは霊的につながっているとはいえ、空虚感は否めない。ミサは生である。対話がないミサはやはり空虚に響く・・・。それでもこの事態が一刻も早く改善され終息に向かうようにと、日々葛藤している。

さて、この機会にある本を読み直した。『夜と霧』の著者V.E.フランクルの『それでも人生にイエスと言う』である。フランクルはあのアウシュヴィッツを奇跡的に生き抜いた人で精神科医である。この著書は強制収容所から解放された翌年(1947年)にウィーンで行われた三回の連続講演の記録である((1)生きる意味と価値、(2)病いを超えて、(3)人生にイエスと言う((3)の原題は「十字架の試練」)、の三つから成っている)。今のわたしたちを覆っている状況は大きな苦難であり挑戦されていることでもある。こんな状況にどんな意味があるのか、問いかけたくなるが、フランクルは次のように述べる。「苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。(中略)人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生におそろしくもすばらしい責任の重みをおわせているのです。」(同書p.49〜50)。フランクルは人間には責任があると繰り返し述べる。「生きるとは、問われていること、答えること―自分自身の人生に責任をもつことである。」(p.57)。キリスト者は神からの呼びかけに「はい」と答え、キリストに従いキリストにならって生きようと日々悩みながら歩んでいく。このことを思い起こさせられる。フランクルは精神科医だから、精神的な支えをなくし、将来を支えにすることができなくなって精神的に落ち込むと、身体的にも衰えてしまう収容所の人々の有り様・状況を目の当たりに見て、心の医者としての困難や葛藤を「十字架の試練」と述べている。話の筋を大幅に省くが、結論部分ではこう述べる。「日常は灰色で平凡でつまらないものに見えますが、そう見えるだけなのです。といっても、その日常をいわば透明なものにする、日常を通して永遠が見えるようにするということだけが問題なのではありません。最終的に大切なのは、この永遠が、時間に戻るよう私たちに指し示しているということです。時間的なもの、日常的なものは、有限なものが無限なものに絶えず出会う場所なのです。この出会いが、日常の聖別式になり、日常を「神聖なものにする」可能性になるのです。私たちが時間の中で創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、同時に永遠に向かって創造し、体験し、苦悩しているのです。」(p.158)。フランクルは「人生から何を期待できるか」と問う問い方を自己中心的な世界観、自己の利益という視点からの人生観と見て、このような見方は、強制収容所におけるような絶望的な状況では耐えることができないと述べる。「私はもはや人生から期待すべきものは何ものも持っていない」と感じた人たちは次々と倒れていった有り様を見ているからである。同じように自己中心的な人生観、世界観では今わたしたちがいま置かれている状況を打ち砕くことはできない。キリスト者として社会に、教会に何かを期待することから、むしろ社会や教会から何を期待されているか、自分には何ができるか、どう答えるか、と問い直す。そうすることによって、永遠に向かって即ちキリストに向かって、キリストを通して永遠の父である神に自分を託し委ねていく生き方がはっきりと見えてくるであろう。そしてそれは日常のなかで悪戦苦闘しながらも、日常の中からこそ永遠の神への道が見えてくることでもある。

復活された主イエスとの出会いは人格的な交わりである。教会はいま集まることができない。秘跡の執行も難しい。それでもわたしたちはこの出会い、交わりを待ち望みながら、日々毎日を葛藤を抱えながらも歩んでいくのである。いまこそ主の復活を心して祝おう。わたしたちの目と耳とを研ぎ澄まし、世界を見通す賢明さと神の知恵を願い求めよう。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“ 霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8・18-25)

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