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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2020年 8月 2日(日曜日)

平和を願うこころを養う

教会誌「こころ」2020年8月号より
主任司祭 ルカ 江部純一

毎年8月はカトリック平和旬間であるが、今年は「平和を願うミサ」も非公開となり(8月8日(土)18時 インターネット配信)、諸行事も中止となった。残念なことであるが皆さんには通常にもまして祈りをともにしていただきたいと願う。

広島、長崎で出される平和宣言は毎年、TVや新聞で確かめることにしている。特に広島の子ども代表の平和への誓いはできる限りTV中継で同時に聴くようにしている。児童の声がいつもこころに響き、考えさせられるからである。

昨年の松井一実・広島市長:
「不寛容とそれ自体が暴力の一形態であり、真の民主的精神の成長を妨げるものです」(注:ガンジーの言葉)現状に背を向けることなく、平和で持続可能な世界を実現していくためには、私たち一人一人が立場や主張の違いを互いに乗り越え、理想を目指し共に努力するという「寛容」の心を持たなければなりません。

田上富久・長崎市長の言葉:
原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく私たち一人ひとりの心の中です。人の痛みがわかることの大切さを子どもたちに伝え続けましょう。それは子どもたちの心に平和の種を植えることになります。平和のためにできることはたくさんあります。あきらめずに、そして無関心にならずに、地道に「平和の文化」を育て続けましょう。そして、核兵器はいらない、と声を上げましょう。それは、小さな私たち一人ひとりにできる大きな役割だと思います。

広島のこども代表の平和への誓い:
二度と戦争をおこさない未来にするために。国や文化や歴史、違いはたくさんあるけれど、たいせつなもの、大切な人を思う気持ちは同じです。みんなの「大切」を守りたい。「ありがとう」や「ごめんね」の言葉で認め合い許し合うこと、寄り添い、助け合うこと、相手を知り、違いを理解しようと努力することは、私たち子どもにもできることです。大好きな広島に学ぶ私たちは、互いに思いを伝え合い、相手の立場に立って考えます。

今年は新型感染症の流行で、各地の夏祭りも多くが中止となっている。昨今は全国から100万人をも越える人が見物に訪れる長岡花火は、戦前から花火打ち上げはあったようであるが「長岡まつり」として花火が打ち上げられるのには、空襲で街が焼かれ多くの死傷者が出た慰霊・追悼の意味が込められている。祭り自体が戦死者の追悼である。花火大会の初めには慰霊の花火が打ち上げられ、黙祷を献げる。昔は灯籠流しも行われていた。名物花火となった「フェニックス」は、2004年10月に起きた新潟県中越地震の被災者の慰霊と復興を願ってはじめられたものである。戦争被災者と災害被災者の慰霊・追悼・復興を願って「不死鳥」(フェニックス)と名付けられたのである。

キリスト者にあっては特に「平和を願うこころ」は一年中、どんな状況にあっても欠かしてはならないが、このことはまた普段のあらゆる出来事を通して、いつもわたしたちの身の回りに「平和を願うこころ」を養っていく機会が与えられているということでもある。過去の出来事を思い起こすとき、現在の困難な状況にあるとき、今起こっている出来事の意味を過去から尋ねようとする。

ユダ王国滅亡期に活動した預言者エレミヤ(前626~586年)は、バビロニアのネブカドネツァルによって都エルサレムが破壊されると預言しただけでなく、実際にその出来事が起こった後、彼らを歓迎した。ネブカドネツァルはユダを懲らしめるための神の道具である。また、当時行われていた神殿祭儀や祭司批判を行うなかで、主の声に聞き従い、内面を見つめ「新しい契約」を民の心に記される時が来る、と説いたのである(「エレミヤ書」)。預言者エレミヤのこうした態度は、周囲の者たちをして彼を裏切り者と呼ばせ、牢獄の泥水につけられ、最後はエジプトに連行され殺害されることになる。

なぜ外国から占領され、悲惨な捕囚をよしとするのか。エレミヤは主のことばを述べる。「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(「エレミヤ書」29,10-11)。

「将来」と訳された語は、「背中・背後」をも意味し、同時に「未来」をも意味する。時の流れに対するヘブライ人の姿勢は我々とは逆である。我々は過去に背を向けて未来を見つめているが、ヘブライ人は未来に背を向け過去を見つめている」(雨宮慧『旧約聖書のこころ』女子パウロ会1989年・要約して引用)。

バビロン捕囚はイスラエルの滅びのためではない。イスラエルの未来は救いなのだという。この時間意識・歴史意識は重大である。「主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」(「申命記」8,2)。なぜ自分たちにこのような苦しみがあるのか、なぜ過去の辛い出来事をいつまでも思い起こすのか。それは彼らを導き、そして時に神ご自身が民の行動を見てあわれむ姿があったからにほかならない。「わたしは彼に対立して語るたびに、それでもなお彼のことを思い起こす。まことに、わたしのはらわたは彼を切望し、わたしは彼を憐れまずにはいられない」(「エレミヤ書」31,20 フランシスコ会訳)。過去を自分の目の前に置く。そして神の行われたわざを見ようとする。だから、今起こっている苦しみや辛酸の意味を探ろうとする。歴史を過去のものとせず、現在・未来に向けての大いなる導き手として意識し、それを語り継いでいく。この伝統と姿勢こそがエレミヤを動かした。

「歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」とは歴史学者の有名なことばである(E.H.カー『歴史とは何か』岩波新書)。「平和を願うこころ」を深めるためには自国の辿った歴史を振り返る。時にそれは大きな過ちであり、他者を傷つけ自分もまたこころを痛めた歴史でもある。それをきちんと、冷静に、事実をできる限り客観的に、一つのものの見方に拘泥することなく、やわらかいこころをもって見つめ、自分(たち)に都合が悪い出来事であったとしても受けとめていかなければならない。なぜなら、そこには一人ひとりの生きた人間がいるからである。相手がいるからである。人と人との関わりなしに人間の歴史はあり得ない。同じ痛み、苦しみ、悩み、喜び、をともにしているからである。昨年の長崎市長の言葉にある通り「人の痛みが分かることの大切さ」を失わず、子どもたちにも伝え、思いをともにしていくことが今ほど要請されている時もないであろう。

日本の司教団は2016年、『今こそ原発の廃止を-日本のカトリック教会の問いかけ』を公にした。持続可能な地球社会を目指していくことも「平和を求め続けるこころ」に通じる。人種差別をなくし、すべての人が平等・対等に生きていくことができる社会を作り上げていくことも平和のためになすべきことである。人に対して社会に対して無関心でいることを止めることも、互いに支援し助け合うことを実行することも平和につながる。

「平和」を祈るとは、いま生きているわたしたち一人ひとりの普段の生活、当たり前のように行われている日常生活が奪い取られないことでもある。谷川俊太郎さんの「生きる」という詩を思い出していただければいい。そのために、いま、一人ひとりが、日常の出来事の意味を深め、出会いを大切に生きること。日常が奪い去られることがないよう、努めて意識を持ち続けること。今まで経験したことがないような状況の真っ只中にある社会を見つめ、新しい生き方を模索しながらも、神の働きを見いだしていくこと。

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