教会誌「こころ」2016年11月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
2015年12月8日、無原罪の聖マリアの祭日に始まった、「いつくしみの特別聖年」は、今年2016年11月20日、王であるキリストの祭日の典礼祭儀をもって幕を閉じます。11月、特別聖年閉幕の月にあたって、この聖なる年の精神を振り返ってみたいと思います。
教皇フランシスコは、いつくしみの特別聖年公布にあたり大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」を出されました。もう一度読み返してみることをお勧めします。上に掲げたロゴは、「良い羊飼い」のイメージですね。迷い出た羊を見つけ出し、喜んで担いで連れ戻す、よい牧者であるキリストが抱えておられるのはわたしたちです。キリストの目とわたしたちの目が重なっているのがわかります。そう、キリストはわたしたちと一緒の向きで生きてくださるお方なのです。ラテン語で書かれたモットーは「御父のように、いつくしみ深く」。まさにいつくしみの特別聖年のテーマそのものです。
「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)
この福音書のイエスのことばこそ、わたしたちの人生の綱領だと、フランシスコは言われます。本当にその通りだと思います。「人生とは旅です。人間は旅人であり、望みの地までの道のりを歩む巡礼者です。」・・・こう言われるフランシスコの言葉の中の、「望みの地までの道のり」とは、わたしたちが「御父のようにあわれみ深い者となる道のり」のことでしょう。
さて、わたしたちがこの目標に達することができるように、主イエスが「たどるべき巡礼の行程」を示しておられると、教皇フランシスコは言っています。そして、その「巡礼行程を示すもの」として挙げられた福音書の言葉が次のものです。今日は、そのシンプルな主イエスの言葉を受け取らせていただくことを通して、聖なる年の精神を振り返らせていただきたいと思います。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ6・37-38)
わたしたちは、この教えを聞くと、もしかしたら神さまとわたしたち人間との間に、ギブ&テイクのような関係を思い浮かべるかもしれません。「赦せば、赦される」「与えれば、与えられる」・・・。そしてそれは、「わたしたちの行い」に応じて、「神が報いられる」という順序で進んでいく・・・。そんな神と人との対応関係のように感じられるかもしれません。でも、決してそうではありません。まず、神の赦しとあわれみが先にあることを忘れてはなりません。詩編で「神のあわれみは永遠」(詩編136)と歌われるように、神の完全なあわれみが、既に先にわたしたちのところに来ています。そのあわれみに出会うためには、「わたしたちにもするべきことがあるのだよ」と教えておられるのです。イエスさまはここで、「あわれみ深いおん父のまなざし」を教えておられるのだと思います。つまり、わたしたちが人を裁かない時、人を裁かないおん父のまなざしに出会わせていただくのです。そして、わたしたちがそのまなざしに与り、そのまなざしと「一緒に生きるように」と教えておられるのだと思います。
おん父は「裁かない」方。人を「罪人だと決めない」方。「赦す」方。「与えてくださる」方なのです。だから、「そのまなざしと一緒に生きるのですよ」と、教えておられるのだと思います。そしてそれこそが、わたしたちが「御父のようにあわれみ深い者となる巡礼」の「具体的な行程」なのだと思います。
神は「与え」、「赦す」お方です。人間の創造そのものが、「与え」、「赦す」神の本質の完全な反映です。創世記には、人間の創造について、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)と記されています。
命の息とは、神のいのちそのものです。神は、土の塵に過ぎないものにご自分のいのちを注がれる、「与える」方です。そして神は、土の塵に過ぎないものと共にいてくださる、「赦す」方です。けれどもわたしたち人間は、人に「与え」人を「赦す」ことなしには、神の「与え」「赦す」愛に出会えないのです。神の愛に出会えない結果を、通常「裁き」と呼んでいますが、人間が愛である神さまを裁いているのに、「わたしたち人間が裁かれる」と表現されるのは、神さまに申し訳ないことだと思います。
だからお互い、もし責めるべきことがあったとしても、「相手の内に神さまが共にいてくださる真実を認めるのですよ」、とおっしゃるのだと思います。これが「裁かない」の意味だと思います。
だからお互い、もし相手の行いが悪かったとしても、「相手の内に神さまが共にいてくださる真実を認めるのですよ」、とおっしゃるのだと思います。これが「罪人だと決めるな」の意味だと思います。
だからお互い、もし赦しがたいことがあったとしても、「相手の内に神さまが共にいてくださる真実を認めるのですよ」、とおっしゃるのだと思います。これが「赦しなさい」の意味だと思います。
だからお互い、たとえそのように思えなくても、「相手の内に神さまが共にいてくださる真実を認め、伝えてあげるのですよ」、とおっしゃるのだと思います。これが「与えなさい」の意味だと思います。
自らお教えになったそのことを、完全に生きて、おん父への巡礼を完成してくださった方は、イエス・キリストです。だから「イエス・キリストは父のいつくしみのみ顔」なのです。そのイエスが、今日、わたしたちと一緒の向きで生きてくださっています。だからわたしたちは、イエスと一緒に、出会う人に「神さまがあなたと共におられます」と告げ、祈ったらよいのだと思います。
だれに対しても、「気を落とさずに、絶えず祈り続ける」(ルカ18・1)なら、それが「御父のようにあわれみ深い者となる巡礼」となります。そしてそれは、今年一年だけのことではありませんね。わたしたちの生涯が、そういう巡礼となっていくように、神さまから期待されていると思います。
