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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2016年 12月 4日(日曜日)

わたしたちの「待つ」を支える方

教会誌「こころ」2016年12月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

11月27日待降節第1主日から、教会の新しい一年が始まりました。待降節とは「読んで字の如し」で、主の降誕を、待つ、季節のことです。待降節の典礼の色は「紫」。司祭の祭服も紫色になります。

また待降節にはアドベントのろうそくが聖堂に飾られます。アドベント(待降節)のろうそくとは、永遠のいのちの象徴として、常緑樹の葉でリースを作り、その上に4本のろうそくを立てたものです。待降節第1主日には、1本のろうそくに火が灯され、第2主日には2本、第3主日には3本、と火が灯されていきます。4本すべてに火が灯ると、その週の内に主の降誕(クリスマス)がやってくるようになっています。

待降節は「待つ」季節です。旧約時代の人々が、救い主メシアを待ち望んだように、わたしたちも救いを完成してくださるために、「主が再び来られる日」を待ち望みます。ミサの中でいつも「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と祈っていますね。わたしたちはその日への希望に結ばれながら、復活の主と共に、今日の日を生きるのです。

「主が来られる日」、「救いの完成の日」のことを、ヨハネの黙示録は「新しい天と新しい地」というイメージで表しています。

「わたし(ヨハネ)はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降ってくるのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(ヨハネの黙示録21・1-4)

最初の天と最初の地は去り、神と人とが共に住み生きる、神と人との完全な一致が訪れる、新しい天と新しい地が来る・・・。これは究極の希望です。その日には「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」のです。一方、いまだ「最初の天と最初の地」に生きているわたしたちは、困難や苦しみや悲しみに囲まれて生きています。しかし、復活の主が一緒にいてくださるので、既に永遠のいのちに結ばれたものとして、希望を持って、忍耐して生きることができます。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)。

「既に勝っている」・・・そう言われる主が、今日、わたしたち一人ひとりと一緒の向きでいてくださいます。その方は既に、「新しい天と新しい地」を見てくださっています。だから今日、たとえ勝利がわたしたちの目に見えなくても、わたしたちは勇気を出して歩むことができるのです。

ギリシャ語には「時」を表すのに、大きく二つの言葉があります。一つは「クロノス」、もう一つは「カイロス」です。クロノスは時計などで計ることのできる時間、1分は60秒などと言うように、計算することのできる客観的な時間のことです。一方、カイロスは、出会いの時です。それは、計算したり、比較したりすることのできない恵みの時です。福音書での使われ方を見ると、言葉の持つ意味の違いがわかるかもしれません。「ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の表れた『時期』を確かめた」(マタイ1・7)という箇所では「クロノス」が使われています。一方、「『時』は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)という箇所では「カイロス」が使われています。情報機器の発達によって、現代人は「待てなくなった」と言われています。手紙の時代は3~4日待ちました。固定電話の時代は、1日は待ちました。携帯電話になるとせいぜい数時間。メールやLINEでは、もっと短い時間しか待てなくなっているようです。どうなのでしょうか、情報機器の発達が、わたしたちの生活の時を細分化し、出会いの時であるカイロスを締め出してしまったのでしょうか。わたしたちは、クロノスという時間の数直線に気付かずに支配されてしまっているのでしょうか。

キリストは、わたしたちの人生が、何年間生きるかという「クロノス」などではなく、人生に、何をどれだけ詰め込めるかという量の問題でもなく、わたしたちの人生の一瞬一瞬が、永遠というお方に出会う「カイロス」でなければならないことを教えるために来てくださいました。わたしたちがクロノスという時の流れの奔流に押し流されてしまわないように、今わたしたちが、たとえ目に見えなくても、永遠である方に結ばれて生きることができるように、忍耐して、たとえ今希望を持てなくても、救いの完成の時を待って生きることができるように、一緒に生きるいのちとなってくださいました。このお方が一緒にいてくださるので、わたしたちは待つことができるのです。

このお方の到来を待ち望む季節が、待降節です。わたしたちはそのお方の到来をすでに知らせていただきました。しかし、人間の中に、永遠の神さまが共におられることなど、聞いたこともないという方はたくさんおられます。だから、すでに教えていただいたわたしたちは、人に告げなくてはならないのだと思います。待てなくなった現代人に、「待つを支えるお方」のことを伝える待降節になりますように、ご一緒にお祈りしたいと思います。

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