教会誌「こころ」2020年6月号より
主任司祭 ルカ 江部純一
中学三年という年は私にとって思い出深い年であった(このことはまた別の機会にお話することになろう)。音楽の授業では全員がアルトリコーダーに取り組むことになり、みんな一生懸命「グリーンスリーブス」を練習した。その後大学時代まで何らかの形で時々リコーダーを吹いていた。私が尺八を始めたのは大学一年の秋である(そのきっかけや経緯はこれもまた別にお話することにする)。先生(師匠)について教えを受けることになり(入門したわけだ)、最初の頃先生に「リコーダーも尺八も上達したい」などと話した記憶がある。リコーダーの教本で知っていた上杉紅童という人は尺八も吹く、というようなことが頭にあったからだ。
新潟教会のオルガンは昭和初期に制作されたドイツ製のもので、日本では最も古いオルガンの一つである。現在は電気で風を送るようになっているが、背後に回ると、かつて使われていたふいごがある。ふいごから送られた空気が風箱の上に立てられたパイプを通って音が出るのである。音を出すには鍵盤を押すことになる。リコーダーは指孔を押さえて音程を変えるが、オルガンは一本で一つの音・音色しか出ないので何本ものパイプと音色を変えるストップが必要となる。しかし原理はリコーダーと同じ。わたしがリコーダーとともにオルガンが好きなのは同じ「笛」だから(?!)。オルガンはリコーダーである。
さて、尺八はどうか。真竹の淵の一部を斜めに切って、そのわずかなすき間に息を吹き込んで音を出す。リコーダーのように息を吹き込めば音が出る構造になっておらず、自分で歌口に直接息を吹きかけ、その微妙な角度によって初めて音が出ることになる。尺八も「笛」なので、その音色・深遠な曲想とも相まってやはり愛する楽器である。
ストラヴィンスキーはオルガンを「呼吸しない怪物」と言ったらしいがそれは間違っている。ふいごで風を送りその風をパイプに通す。ふいごは人が身体を使って一生懸命操作する。だからオルガンは呼吸をする立派な「笛」である。聖歌「父はいる」(典礼聖歌401)は詩人高野喜久雄の作詞である。ここで少し寄り道をする。有名な合唱曲「水のいのち」は髙田三郎作曲、高野喜久雄作詞である。高野が教師をしていた新潟県高田(当時)で出会い、その後も交流があった佐藤光子さんの句がある。
「さまざまなものを沈めて水澄めり」
この句の鑑賞を高野が書いている。
「この句はとても優しくて、私をいちばん励ましてくれるものだ。こんなに素直に、しかも正確に水を見つめた句に出会うのは幸せなことだ。森を縫って流れる小川であろうか。葉や枝や木の実も沈め、蛙やトカゲや小鳥の死骸も沈め、また人間どもの投げ捨てたごみ、あらゆるものを黙って受け止め、なお絶え間なく流れ止まないせせらぎであろう。底に沈めたものの異形さにもかかわらず、いやむしろその故にと言うべきか、水はますます澄んでゆく。それはまるで祈りのようだ。切なく悲しき儀式のようだ。そして誰もが気づくのである。そうだ、自分もまた恐らくはこのひたむきな水ではないかと。ありとある塵あくた、異形なごみを流しさるほどの力はないが、もっともっと清らかに、澄もうと願うことならできるはずだと。」(佐藤光子「水澄めり」新風舎 2006年 絶版)
高野の鑑賞文は「水のいのち」のこころそのものであると言っていい。この機会にまた「水のいのち」を味わってみたい。
さて、尺八である。尺八やリコーダーを吹く。わたしの先生ではないが、尺八は吹くのではなく吐くのであると言っている尺八家もいる。この言葉は考えるに値する。聖歌「父はいる」の歌詞一番は「父はいる 吐く息吸う息のうちに。父はいる 組む指組めない指に 歌うのど歌えぬのど おおどこにでも 父はいて 父はいて そのわざはひとつ」と歌う。作曲者は、この歌詞は詩人でフランス大使として日本に滞在したポール・クローデルの「我々は神を呼吸しているのだ」に霊感を得て作られたものであると述べている。作詞は先の高野喜久雄である。(ポール・クローデルは日本在任中、毎日曜日神田教会のミサに出席し、座る席も決まっていたということである)。神はすべてのものに遍くおいでになるということだ。
「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2・7)
「神の霊がわたしを造り 全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。」(ヨブ記33・4)
なかなか音が出ない尺八。練習し始めて30分くらい経つとようやく音が出始めるが、その時には酸欠になって頭はくらくら。練習はそこでおしまい。というのでは先生に合わせる顔がない。「自分の吐く息がそのまますべて音になりたい」といつも思う。それは「いのちの息」そのものが楽器で、その息が音になるからである。
「岩波古語辞典」(初版)の「いのち」の項目には次のような説明がある。「イは息(いき)、チは勢力。従って、「息の勢い」が原義。古代人は、生きる根源の力を目に見えない勢いのはたらきと見たらしい。・・」と。キリスト者にとっていのちとは、見えない神の働き、神の霊=息吹を日々毎日生きていくこと、神とともにあるということである。人は神の息=霊を呼吸しているのである。尺八を吹く=尺八に神の息を吐く、そして深遠な神のはからいを竹に息を吹き込むことによって祈るということ。リコーダーはというと、同じ息を吹き込むが強すぎても弱すぎても音程が不安定となる。息をたくさん吸い込んでいてもその全部が音になるには息が多すぎることがある。ここが尺八との大きな違いである。吹き込む息の量を調節しなければならない。これは実は難しい。オルガンは一定の風、空気が送り込まれるから、通常は音量が変えられない。音色を変化させるかスウェルシャッターを開閉して音量と音の柔らかさを調節する。新潟教会のオルガンは一段鍵盤で音色を変化させるストップも少ない。スウェルペダルを踏むと、オルガン本体横にある扉が開閉し、音の強弱をつける。すぐそばで見ているとこの装置がよくわかる。リコーダー・尺八・オルガンは、いずれも神の息=風=霊をそれぞれの楽器に吹き込むもの、生きている=呼吸をしているのである。生きているから演奏者によって少しずつ音色も表情も違う。それは生きているあかしである。
いろいろなところで指摘されているとおり、新型感染症による影響は極めて大きい。教会活動だけでなく、今後の世界のあらゆる活動が今までと同じようにはいかなくなるだろう。様々な指摘は各分野・各方面を見ていただくとして、ここでは次のことだけは確認しておかなければならない。
①地球上に生きるすべての人が、差別されることなく、生きるための手だてが与えられること。職業上も地域・国においても人間としてふさわしい生活と医療が保証されること。
②国連開発計画の持続可能な開発目標(SDGs)。貧困に終止符を打ち、地球を保護し、すべての人が平和と豊かさを享受できるようにすることを目指す普遍的な行動を取っていくこと。理想に終わらせてはならない。③わたしたちにとっては、今までの生活を少しでも見直し実行に移していくこと。特に資源のない日本(たとえば食料自給率は40%を下回っている)は再生可能エネルギーの開発と利用に舵を切る決断をする。電気のスイッチを消すところから始める。地球温暖化につながることを少しでもやめ始める。根本的には、ダグラス・ラミス著「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(平凡社)ということではないだろうか。
先の「水のいのち」の5.「海よ」の一部である。
ありとある 芥/よごれ 疲れはてた水/受け容れて/すべて 受け容れて/つねにあたらしくよみがえる/海の 不可思議/おお 海よ/たえまない 始まりよ/あふれるに みえて/あふれる ことはなく/終るかに みえて/終ることもなく/億年のむかしも いまも/そなたは/いつも 始まりだ/おお 空へ/空の高みへの 始まりなのだ 神が造られ秩序づけられ、ご自身の息吹を送られわたしたちを生かしてくださっている とてつもない恵みを無駄にしてはならない。聖霊を悲しませてはならない。
ヨブは友人に述べる。
「神の息吹がまだわたしの鼻にあり わたしの息がまだ残っているかぎり この唇は決して不正を語らず この舌は決して欺きを言わない」(ヨブ27・3-4)
わたしたちには神の息吹が注がれている。
「けがれたものをきよめ すさみをうるおしうけたいたでをいやすかた かたいこころをやわらげ つめたさをあたため みだれたこころをただすかた」(聖霊の続唱)
聖霊来てください。あなたの息吹を注ぎ、わたしたちを照らし清めてください。人間にとって何が一番大切なことなのか、教え導き助けを与えてくださいますように。あなたのいのちの息を、それぞれがそれぞれの仕方で奏で、響きあってともにあなたを賛美することができますように。困難な時を乗り越えていく力をお与えください。