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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2017年 6月 4日(日曜日)

ジュリアに会いに行きましょう

教会誌「こころ」2017年6月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

2017年5月19日(金)の晩から21日(日)に かけて、第48回ジュリア祭が行われました。ジュリア祭は巡礼祭で、巡礼地は伊豆七島の神津島です。

参加者は19日の夜21時に、竹芝桟橋の客船ターミナル待合所に集合しました。広い待合所には、乗船を待つ釣り客や、トライアスロンのレースに参加するために、折り畳んだ自分の自転車が入った大きなバッグを抱えている人たちが大勢見受けられました。巡礼団の一行は、それらの乗船客の間に適当な場所を見つけて集まり、結団式を行ないました。5月は聖母マリアの月ですので、初めにカトリック聖歌集の「あおばわかばに」を3番まで歌い、アベマリアの祈りを唱えました。次に同行司祭の紹介をし、最後に、添乗員からの諸注意を受けて、一行は乗船口へと移動していきました。ちなみに、巡礼団長は教区事務局次長の浦野師。他に関口教会の西川師、神言会のディンド師、ロボ師、そしてわたくしが同行いたしました。

出航は22時、船は大型客船「さるびあ丸」です。途中、横浜大桟橋、大島、利島、新島、式根島、と寄港しながら進むので、終点の神津島到着は、翌朝の10時となります。出航した途端、時間の流れが変わり、船内は何とも言えない寛いだ空気に包まれます。デッキやオープンスペースには、思い思いにシートが敷かれ、至る所に車座ができ、缶ビール片手の酒盛りが始まります。洋上の涼しい風に吹かれながらデッキに立つと、真っ暗な海面の向こう岸に見えるのは、高層ビル群です。ビル毎にまちまちなタイミングで点滅している赤色灯にぼんやりと目をやっていると、レインボーブリッジの橋梁が頭上ぎりぎりを通過していきました。巡礼団はこのあと12時間、船上で思い思いに時間を過ごすことになります。わたくしも出身教会の本所教会の人たちの飲み会に混ぜていただくことにしました。

翌朝6時に大島港に到着しますと、下船客と入れ違いに、その朝作られたばかりの「アシタバ」のおにぎりが搬入され、それが巡礼団の朝食となります。ほろ苦い野草のアシタバの混ぜご飯のおにぎりは、素朴ですが鮮烈な野趣があって、「島にやって来た」、という気分を高めてくれます。早朝のデッキに出てみますと、船は昨晩の 東京湾内の時と比べて、感覚的にですが、倍位の速度で走行していました。今年は浦野神父さまから、14時半からの、ジュリア顕彰碑広場で行われる野外ミサの主司式と説教をするようにと言われていたので、その準備を続けるために、2時間位、朝のデッキに留まりました。個人的なことですが、どうした訳か、木曜日位から右下の歯茎が腫れ始め、土曜日には、まるで飴玉でも舐めているかのように、頬が腫れてしまいました。そんな痛みの中で、話すべきことと出会うために格闘していました。

定刻の10時に神津島・前浜港に到着すると、波止場には村長を始め役場の方々、そして紺色のポロシャツを着たスタッフの方々が、お迎えをして下さいました。毎回の事ではあるのですが、「神津島へようこそ」と書いた横断幕を囲んで、まさに役場の方が30名以上「総出」という感じのお出迎えでした。その先に、今度は民宿の方がそれぞれ宿名を記した小さな旗を振ってお迎えくださいます。巡礼団は、グループ毎に割り振られた宿に「分宿」という形になっているので、それぞれ、お迎えの車に乗り込み、一旦宿まで行って荷物を置き、その後、大きな白亜の十字架の聳える「ありま展望台」まで送ってもらいます。写真ではよく分からないかもしれませんが、高さが10mはあろうかと思われる大きなものです。台座には碑文があり、「ジュリア終焉の島」と刻まれています。その下には短い文章があり、秀吉の朝鮮侵略戦争の際、孤児となったジュリアを、キリシタン大名、アウグスチノ小西行長が日本に連れ帰り、育て、徳川家康のキリスト教禁教令によって、神津島に島流しにされるまでの経緯が簡潔に書かれています。そしてその結びに「またその遺徳を讃える祭りは1970年5月25日に第1回のジュリア祭をして始まり、今日に至っている。下山正義神父」と記されています。わたくしの恩師である下山正義神父さまは、第1回から第25回までの巡礼団長だったのです。

そもそも、このジュリア祭が行われるようになったきっかけは、神津島村の方々の働きかけによるものです。1612年にこの島に流されたジュリアが、霊的指導司祭にあてた手紙の中に、「何よりも苦しいことは、ミサに与ることができないことです。わたしはここでの生活を、カルワリオの丘(ゴルゴタの丘)であると黙想して過ごしています」という言葉があり、そのことを受けて村の人たちが、カトリック東京大司教区に対し、「ジュリアが待ち望んだ『ミサ』という祈りを、ぜひ神津島に来て捧げてください」とお願いしたことが始まりです。白柳大司教さまの時代です。それを「分かった、引き受けた」と受け取ったのが、当時本所教会主任司祭であった下山神父さまでした。巡礼団長を下りられた後、神父さまは程なくして亡くなられましたが、その後数人の司祭が団長を交代し、現団長はやはり本所教会出身の浦野神父さんがなさっています。ジュリアが住んでいた前浜の集落を見下ろすありまの十字架の元で、皆でロザリオの祈りを一連唱えました。400年前、ジュリアも全く同じこの景色を見たに違いありません。

さて、昼食後14時半から、神津島村役場からほど近い、ジュリア顕彰碑広場にて野外ミサが行われました。話すべきことと出会うために格闘した中で残ったのは「ジュリアに会いに行きましょう」という言葉でした。今年初めて同行してくださった、河谷さん(潮見教会)という若い有能な添乗員の方が、参加者に送付してくれた最終のお知らせの封筒の表に、「400年前、天下人徳川家康から直接弾圧を受けてなお、福音と共に生き抜いたおたあ・ジュリアに会いに行きましょう」という言葉が印刷されていました。たしかにその通り。巡礼は過去の出来事に 会いに行くのではなく、今そこにあるいのちに出会うために行くものです。では、わたしたちはどこでジュリアに会うのでしょうか。わたくしはミサの中でそう皆さんに呼びかけました。それは、お墓でもなく、十字架でもなく、ここでの生活を「カルワリオの丘」として生きたジュリアと一緒に生きることを通して出会うのではないでしょうか、と話しました。カルワリオの丘のイエスは、十字架の上でただ苦痛を耐え忍んだだけの方ではありません。すべての人の中に、神のいのちを見てくださった方です。自分を殺そうとする者の中にも、神のいのちを見出してくださったのです。一生懸命話しましたが、巡礼のミサなのに、少し難しくしてしまいました。

翌日曜日の朝は、7時半から港の船舶待合所のホールで「復活節第6主日のミサ」を行いました。ミサが終わって外に出ると、テントが張られ、椅子が並べられて、またスタッフの方が総出でおもてなしです。男性陣が餅をつき、女性たちが小さくちぎって丸め、皿にもって振る舞ってくださいます。お別れに高校生たちが太鼓を披露して下さいました。「祝太鼓」という演目が力強く響きわたる中で、このおもてなしのすべてを、ジュリアがしてくださっている? そう気付いた時、涙が止まりませんでした。皆神津島で癒されて帰っていきます。

どうして今まで気付かなかったのでしょうか。紙テープで島の人とお別れをした後、歯茎の腫れが引いていました。ジュリアに会いに行きましょう。来年はちゃんと麻布巡礼団を組んで行くようにします。

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