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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2017年 12月 3日(日曜日)

ヨセフ・フロジャック神父さまのこと

教会誌「こころ」2017年12月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

11月5日(日)青山霊園の墓参に参りました。麻布教会で、毎年「死者の月」である11月の第一日曜日9時半のミサ終了後に、教会行事として墓参を行っております。集合地点は、青山霊園の「外人墓地」の一角にある、パリ外国宣教会(パリミッション)の司教・神父さま方の墓前です。その隣が聖パウロ会の墓地になっています。ミサ後、皆さん思い思いに、三々五々という形でそこに歩いて集まって来られます。「いつも皆と一緒に歩くのでそこに行けるが、一人では場所がわからない」という方も多いのではないでしょうか。初めて訪れるという方のためにも、行き方をご案内しておきましょう。

西麻布の交差点から、外苑西通りを北に進み、すぐの二股の信号を右に行きます。次の信号「墓地下」は複雑な交差点ですが、煙突がニョキニョキ生えたラーメン屋さんを右に見ながら、桜並木の通りを北方向に登って行きます。これが墓地を南北に貫く「中央通り」です。途中、信号機のある「青山墓地中央」交差点を通り過ぎて更に進み、進行方向左手に延びる「西五」通りを左折して、「5ブロック目」の右手です。教会から約1km、歩いて15分ほどの道のりでしょうか。

まず墓所に到着すると、一年の間に生えた雑草を抜いたり、墓石をデッキブラシで擦ったり、落ち葉を掃いたりして清掃をいたします。今年は天候もよく気温も高めで、気持ちのよい墓参日和となりました。40名くらいの方が参加されました。清掃後、聖歌「主にまかせよ」を大きな声で歌ってお祈りを始めました。ここに葬られているパリミッション会士は、大司教3名、司祭6名の計9名です。お名前は次の通り。

ピエール・マリー・オズーフ大司教(1876〜1906年)
*大司教は在位期間
フランソワ・ボンヌ大司教(1910〜1912年)
ジャン・ピエール・レイ大司教(1912〜1927年)
バランシュ神父(1853〜1882年)
ベルジェー神父(1864〜1891年)
E・バレー神父(1870〜1913年)
Jバレッテ神父(1852〜1918年)
シュタシェン神父(1857〜1929年)
ツルペン神父(1853〜1933年)

最後のツルペン神父さまは1907〜1932年まで、25年間の長きにわたり、麻布教会の主任として司牧してくださいました。

聖水を撒き、献香をした後、アベマリアのお祈りの中で、参列者のお一人お一人が墓所に花を手向けました。禁教令が解かれた後の、日本の教会の再宣教時代の草創期に、たくさんの優秀な人材と資材を注いでくださった、パリミッション会士の皆さんは、二度と祖国の土を踏まない覚悟で宣教地に赴いてく ださいました。その尊い生涯の名が刻まれた墓石に向かって祈りながら、わたしは同じパリミッション会士である、ヨセフ・フロジャック神父さんに思いを馳せていました。

ちょうど前日の4日(土)に、清瀬市にあるカトリックミッション校である「東星学園」で職員黙想会があり、わたしは黙想指導をするように言われていました。東星学園はわたくしが理事を仰せつかっている学校で、ヨセフ・フロジャック神父さんが創設したものです。今年のテーマが「無償の愛とは。-フロジャック神父の生き方から学ぶ-」というものでしたので、改めて本をよく読んで調べていました。お墓でお祈りしながら、そこに葬られているパリミッションの司教・神父さま方と、フロジャック神父さんの生涯が重なりました。フロジャック神父さんは日本に来られた時23歳。最初に宇都宮教会に赴任し、「歩く宣教師」として有名なカジャック神父さんの助任として働き、翌年水戸の教会を任されました。わたくしの曾祖父はカジャック師から洗礼を受けたと聞きました。館林において、美智子妃の曾祖母にあたる「正田きぬ」さんと出会ったのはこの時期のことで、後の昭和2年にフロジャック神父が洗礼を授けています。師にとって忘れられない喜びの出来事であったようです。その後、着任間もないレイ大司教(第4代東京教区大司教:青山外人墓地に埋葬されています)の命で、築地教会に移り、司教座付き司祭となります。翌年、第一次世界大戦に召集されたリサラグ師の後任として浅草教会に赴任、その3年後に関口教会の主任として任命されることになります。

さて、当時の東京教区というエリアは、関東7県と中部9県という広範なものでした。その広大なエリアに30の教会があり、司祭も同数しかいなかったのです。しかし、大戦の勃発によって、教区は突然の苦境に陥ることになります。宣教師の半数が本国に召集され、残っているのは老宣教師か、病弱の者ば かり。そして日本人司祭は本城、外岡の2神父だけ。更に欧州からの経済的援助が完全に途絶えてしまうという状況に直面します。レイ大司教は、若きフロジャック神父を教区の中心に据え、重責を託しました。関口教会の主任、当時築地から移転拡張なったばかりの神学校の校長兼教授、児童福祉施設マイ カイ塾の塾長、東京教区会計という四つの部門の長の兼務でした。超人的なエネルギーを要したであろうこれらの仕事を、召集を免れるほどの虚弱な体質であった師が耐え得たということは、本当に不思議なことであります。老熟のドルワール師の後任として関口教会に着任した32歳のフロジャック神父は、信徒に歓迎されませんでした。着任後、半月もしない内に盲腸を悪化させて倒れ、死を宣告されて終油の秘跡を受けます。20日の苦闘の末、2月11 日ルルドの聖母の祝日に奇跡的に回復します。周囲の者に理解されず、死を見つめながら孤独に病む人の心をつぶさに味わったフロジャック神父は、9年後にもっと悲惨な状況におかれた結核患者の群れがあることを知ることになります。それが貧しい人、苦しむ人の友となったフロジャック神父の召命でした。

昭和2年7月19日、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの祝日に、高橋登美男という結核患者を見舞うために、中野の江古田にある東京市立中野療養所を訪問しました。そこにあったのは、一切の希望というものから見離された人間特有の目の色でした。その日から毎週、療養所の訪問が始まりました。年間死亡者11万人、患者130万人という昭和初期にあって、結核は死病でした。そういう患者一人ひとりを毎週見舞い続けたのです。当時療養所で公然病室回りを赦されていた宗教家はフロジャック神父ただひとりだったそうです。「ふつう外来者の方から患者さんにお話をいただく時には、大抵一堂に集まって聞くのですが、フロジャック先生の場合はそうではなかった。ご自分の方から出かけて行って、患者の枕元に座り、顔を深く近づけて話しておられたのです。わたしたちはそれをお断りすることができなかった。全くそういうことは、精神的でなければできないことです」(『フロジャック神父の生涯』五十嵐茂 雄)訪問が始まってから6年になる昭和8年に、当時の所長を始め、医局員、職員、看護婦一堂が連署して、ローマ教皇に感謝の書簡を送ったと言われています。

その後フロジャック神父は、療養所を出て行き場のない人々のために、「ベタニアの家」を作り、親が結核になり、行き場がなくなった子どもたちのために、「ナザレトの家」を作り、回復期の患者の更生のために「ベトレヘムの園」を作り、そこに住む子どもたちのために「東星学園」を作り、戦後の引き上げ者のために那須の広大な敷地に「光星学園」を作り、それらすべてを支える働き手としての姉妹たちの「ベタニア修道女会」を作ったのです。それらは皆、貧しい人を憐れむ神の業だと思います。フロジャック神父の働きの中から生まれた教会には、秋津教会、徳田教会、上野教会があります。その他、神学校を現在の練馬区の関町に移したのも、フロジャック神父。府中に墓地を作ったのも神父さんの仕事です。自分で土地を探し、契約まで一人で行ったそうです。

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