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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2019年 7月 7日(日曜日)

一緒に喜んでください-イエスのみ心

教会誌「こころ」2019年7月号より
主任司祭 ルカ 江部純一

わたしの手元にオリーブの木で作られたよい羊飼いの小さい置物がある。迷い出た羊を見つけ出し肩に乗せて、喜んでかえってくる羊飼いの姿である(ルカ15・1-7)。

イエスのもとに徴税人や罪人が近寄って来た。ファリサイ派や律法学者たちから、不品行な者、社会的な不届き者と言われた人たち、社会から仲間外れにされていた罪人たちを迎えて食事をしているイエスは非難される。なぜか。迎えてはならない者たちを迎え入れる、飲食をともにしているこのイエスという者はいったい何ほどの者なのか。罪人たちが近寄って来るこんな不遜な者(イエス)に対する怒りがここに現されている。

そこでイエスが「あなたがたの中に百匹の羊を持っている人がいて」と話し始めたときファリサイ派や律法学者たちの中にはぎくっとした人がいた、と推測する人もいる。羊飼いもまた罪人、徴税人と同じように卑しい者と考えていたからである。ファリサイ派の人たちも羊の肉を食べ羊の衣服を着ているにもかかわらず、羊飼いを卑しい職業の者と軽んじ、選ばれた清い存在である自分たちの誇りが傷つけられた、と感じたに違いないからである。

イエスは見失った一匹の羊を探し出す羊飼いのありさまを話す。あなたたちが退けているこの人々(徴税人、罪人)は、羊飼いが探しだす一匹の羊に似ているではないか。羊飼いでなくても、だれでも、自分の可愛い子どもが迷子になったら探しに行く。なくし物をしたら隅から隅まで探す。それはだれもが、例外なく、見つけるまで探しに行く。その子どものために、その大切な物のために、必ず出かけていくではないか。神はこの羊を探し出す羊飼いではないか。失われた者を見つけ出す神の愛、ここにイエスとともにある喜びが現れている。それにもかかわらず、その大きな喜びを認めることができない、認めようともしない、見いだされた喜びに対して嫉妬と怒りを抱く「正しい」人たち。イエスのもとに近寄って来る人々とそこから遠く離れて立つ人々。助けなしには社会から疎外され、生きていくのもままならない人々と「正しくない」人々を監視し、告発する人々・・・。

「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18・14)。見つけ出された羊を喜ぶ羊飼いの心、「一緒に喜んでください」という羊飼いの気持ちをどうしてともにすることができないのか。人が苦労を乗り越え、ほっと一息安心している思いを共有できないのか。人の喜びを自分の喜びとする。一人の人が見出されたことを「よかったね」と言い、思いをともにする生き方。天にある喜びは地上に生きているわたしたちのすぐそばにある。迷った一匹を見つけ、喜んでそれを肩に乗せて家に帰る羊飼いの姿は、イエスの喜びそのもの。イエスのみ心そのものである。

「ともに喜びをもって生きよう」(1988年日本司教団)、「ともに喜びをもって福音を伝える教会へ」(2019年3月日本司教団の呼びかけ)と呼びかけられている。一人ひとりが羊飼いイエスに担われて家に帰ることができる存在であるということに気づき、その喜びをともにすることができるよう、イエスの愛の中に立って歩みたいものである。

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