教会誌「こころ」2014年3月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
先日、土地の祝福式のために出かける用事がありました。その時、香炉や聖水器を置く台を持っていきましたが、その台の中央に置くための、小さい十字架を探しました。香部屋の中をいろいろ探しましたが、丁度良い大きさの十字架は、金属製のものしかなかったので、「木製のものの方が、感じが良いのだけれどな・・・」と思っていました。その時、ふと「一体、十字架というしるしは、今の日本の社会の中で、何のしるしとなっているのだろうか」、また「自分は十字架のしるしを、どのようなしるしとして受け取っているのだろうか」、という思いが浮かんできました。それは、信者さんでない建設会社の方々も目にすることになる「十字架」について、まず、材質の質感を考慮している自分があったからです。もちろん、日本人にとって「質感」というものはとても大切です。祝福の場における、「違和感」はあまりふさわしいものではないからです。でも、そこに「十字架を置く」ということが、どういうことであるのか? わたしはそのことを通して、何を受け取り、そこにいる人たちに何を伝えようとする者であるのか・・・? そのことこそ、まず、第一に考えられるべき内容だと思ったのです。
わたしは「十字架」とは、イエスさまの「祈り」だと思います。だから「十字架を置く」とは、イエスさまの祈りに、一緒に加わることだと思います。「十字架が祈り」だと言うのは、十字架の上でイエスさまが祈られたからです。そして、その祈りとは、どのような祈りであったのか。ルカの福音書によれば、イエスさまは釘で打ちつけられた十字架の上で、祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)
これがイエスさまの祈りでした。「自分が何をしているのか知らない」・・・。つまり、自分の内にも、人の内にも、神さまが共にいてくださることを知らない・・・。だから、そのことを「知らせたい」「出会わせたい」。これが、イエスさまの祈りでした。そして、そのことを「知っておられる」イエスさまは、ご自分を十字架に磔(はりつけ)にした者たちの内にも、「神さまが共におられる」という真実を見、そしてその真実を祈られたのだと思います。十字架の上で、「すべての人の内に共におられる神の真実」を見て、そのすべての真実をご自分のいのちに結んで、そして「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)と言って、おん父に繋いでくださったのです。これが、イエスさまの「十字架という祈り」でした。そして、「復活」によって、人間すべてのいのちを「永遠のいのち」に繋いで、完成させてくださったのです。だから、その「完成者」であるイエス・キリストを信じる時、わたしたちもその「完成」にあずからせていただくのです。
わたしは「十字架」とは、イエスさまの「祈り」だと思います。それは、神に愛されているのに神を愛さない、人間という「理不尽」の中に投げ入れられた祈りだと思います。だから、「十字架を置く」とは、そのイエスさまの祈りに、一緒に加わることだと思います。
祝福式には、信者さんでない建設会社の方々、少し離れたところに行政の方もおられました。また、ベランダから様子を伺っている人もおられました。台の上に十字架を置き、イエスさまの祈りに加わります。イエスさまはここにおられる全ての方々、近隣の方々、また以前ここにお住まいになっておられた方々、ここで生まれた方々、なくなられた方々、すべての人の内におられる神の神秘を見ておられるでしょう。わたしも、そのお祈りに加わって、そこに立ち会っておられるすべての方々、近隣の方々、また、これから先、出会うことになるすべての方々の内におられる神さまの真実を思って、祈りました。「いつの日か、その真実との出会いが実る時が来ますように」。そう願って土地の祝福をいたしました。
3月5日から、今年の四旬節が始まります。四旬節には、「十字架の道行」が行なわれます。イエスさまは、十字架の道行のすべての道程において、出会う人、一人ひとりの中に、「神が共におられる神秘」を見て、祈られたのだと思います。わたしたちも、この四旬節に、イエスさまの十字架の言葉を、一緒に生きるようにいたしましょう。出会う人、一人ひとりに「神さまがあなたと共におられます」と祈る者となるように、努めましょう。
