教会誌「こころ」2014年4月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
ご復活おめでとうございます。特に、復活祭に洗礼を受けられた、新受洗者のみなさんと共に、心からご復活のお喜びを申し上げたいと思います。また「いつかは自分も」と思っておられる方々も、本当におめでとうございます。ご復活は内側から溢れ出る喜びです。
さて、人に「復活とはどういうことですか」と尋ねられたら、わたしは「イエスさまというお方が、わたしの内に立って、一緒の向きで生きてくださること」と答えます。また、「亡くなった愛する人が、自分の内に立って、自分と一緒の向きで共に生きてくださること」と答えると思います。
自分のことになりますが、わたしにとって今年の復活祭は特別なものとなりました。それは3月11日に父が亡くなったからです。急なことでしたが、父は91年間の生涯を全うしてくださいました。いつの頃からか、わたしは漠然と「両親が亡くなったら、自分は強くなるだろう」と思っていました。社会人になった頃からでしょうか。どうしてであるかはわかりませんが、ずっとそう思っていました。そしてこの度、父が亡くなって分かったことは、「やはり強くなったと思う」ということです。どうして強くなったのかと言えば、父が今、わたしの内に、わたしと一緒の向きで共に生きてくださっているからです。「父はもう亡くなったのだから、もう、この世にはいない」というのは、絶対に違う。「父は天国で安らかに憩っておられる」というのも違うのです。「父はどこかで見守っていてくださる」というのも何か違うのです。「いつも側にいてくださる」というのも、それもちょっと違うのです。やはり、「自分と同じ向きで、一緒にいてくださる」ということ以外には、まったくしっくりきません。行きつけの床屋さんで髪の毛を切ってもらいながら、父が亡くなったことを話していたら、マスターが「神父さん、お父さんが亡くなられるっていうことは、(キリスト教では?)どうなんですかね。どういう感じなんですかね。どこに行かれるんですかね」と言われました。わたしは「父は、わたしの中で、わたしと一緒の向きで生きておられるんですよ」と言いました。するとマスターは「それはいいですね。それはいいですね。ああ、それはいいですねえ」と、言っておられました。「いいでしょう?」復活はとてもすばらしいことです。すべての人に知らせたいことです。わたしはこの時、マスターの中に復活しておられるご両親も、「それはいい」、と賛同してくださっているのではないかなと思って聞いておりました。
復活とは「イエスさまというお方が、わたしの内に立って、一緒の向きで生きてくださること」と申し上げました。しかし言うまでもありませんが、わたしは直接にはイエスさまにお会いしたことがありません。声をお聞きしたこともないのです。でも、聖書を読む時、イエスさまというお方のいのちが立ち上がります。人に仕え、病気の人に優しくして、人をモノ扱いにする人たちには厳しかった・・・、そういうイエスというお方のいのちが、聖書の学びを通して、「人間一人ひとりの中に立っておられること」に気づかせていただくのだと思うのです。
父は誠実で、裏表の全くない人でした。その父が、今、同じ向きで共にいてくださることを通して、また「神父になれ」と道を示してくださった、恩師の下山正義神父さまが、今、同じ向きで共にいてくださることを通して、わたしは「イエスさまが共におられる」という真実の片鱗を受け取らせていただいているのではないかと思っています。
「主の死を思い 復活を讃えよう 主が来られるまで」・・・ミサの中で毎回この言葉を唱えます。普段この言葉の意味をあまり考えていないかもしれません。「父の死を思う」時、ふと「もう目に見える姿ではこの世におられない」という違和感と寂しさに襲われます。しかし、すぐに「復活を讃え」ます。つまり、自分と同じ向きで一緒に生きてくださっている真実を感謝し、讃えるのです。「主が来られるまで」・・・でも、やはり顔を合せてまた父に会いたいのです。それは次の世に入ってから叶えられることです。それまではやはり「主の死を思い、復活を讃え」ながら、一緒の向きで生きてくださるいのちと結ばれて、この世でのいのちを生きたいと思います。
