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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2014年 6月 1日(日曜日)

6月は「イエスのみこころの月」

教会誌「こころ」2014年6月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

「イエスのみ心」の祭日は、「聖霊降臨後第2の主日」(日本では「キリストの聖体」)の週の金曜日です。この日に全教会で祝うように制定したのは、教皇ピオ9世、1856年のことです。

聖霊降臨の主日は、ご復活に連動して年によって日付の変わる主日ですので、イエスのみ心の祭日もそれに伴い、5月29日から、7月2日の間を移動します。移動する期間を見ても分かるように、ほとんどの年は6月に祝われることになりますので、次第に6月が「イエスのみ心の月」として浸透し、定着したのではないかと思われます。中世の人々は好んでイエスの受難を黙想し、なかでもイエスの脇腹の傷について思い巡らしました。十字架上でイエスの脇腹が槍で刺された時、その心臓が貫かれたに違いないことを思うようになり、またそのことと、イエスの無限の愛を象徴する“心”と結びつけることによって、イエスのみ心への特別な信心が芽生えました。

イエスのみ心への信心が、はっきりした形をとるようになったのは、聖母訪問会の修道女、聖マルガリタ・マリア・アラコク(1647-90)が受けた霊的な体験によるものです。フランスのブルゴーニュ生まれのマルガリタは、1671年、24歳の時にパレ・ル・モニアルの修道院に入りました。その後、73年から75年にかけて、数回主イエスの出現を体験しました。その中でも最も重要なのは、1675年の出現で、その時にイエスの胸には心臓が見えるようになり、その開いた傷からは、愛を象徴する炎が出、イエスを傷つける人々の罪を象徴する茨の冠が心臓に絡みついていました。マルガリタはその時、イエスさまの次の言葉を聞きました。

「この心を見なさい。これは、人間を非常に愛し、人々にその愛を示すために、涸れ果てるまで何一つ惜しまなかったものなのに、多くの人々から、その報いに、特に聖体の秘跡において、忘恩、不敬、さらには冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。最も辛いのは、わたしに献身した人々も、そうした態度を取っていることである」

その後イエスさまは、「聖体の祭日の翌週の金曜日に、聖体において受けた全ての辱めを償うために祝日を設け、その日に償いの心を持って聖体を拝領すること」をお命じになりました。このことに従って定められたのが「イエスのみ心」の祭日です。(日本では「キリストの聖体」の祭日は、日曜日に祝われるので、「イエスのみ心」の祭日はその週の金曜日となります。また、ほかの出現の際に、イエスさまは9カ月続けて月の最初の金曜日に、償いの意図で聖体を拝領する者に、特別な恵みを与えることを約束されました。今も大切にされている「初金」の習慣はここから生まれたものです。

カトリック麻布教会の教会堂の正式名称は「イエスのみ心教会」です。イエスのみ心に捧げられた教会であるということです。また、お隣の幼稚園も、「麻布み心幼稚園」です。み心とは、言うまでもなく、イエスのみ心のことです。「イエスのみ心」とは、今申し上げて来た通りですが、簡単な言葉で言えば、「人間の中に神のいのちがあり、神がお住まいになっておられることを、何とか人間に知らせ、出会わせるために、ご自分の命さえ惜しまれなかった、イエスさまの愛の心」のことです。そしてそのお心が軽んじられていることを恥じ、償いの心を持って聖体を受けるのが「イエスのみ心」の祭日の精神です。

「償いの心を持って聖体を受ける」とはどういうことでしょうか? それは、聖体を受けて、「イエスさまと一緒の向きで生きる者になる」という意味だと思います。つまり、イエスさまがお受けになる辱めを、わたしたちも負う者になるということです。たとえ人に軽んじられても、「すべての人の中に神のいのちがあり、神がお住まいになっておられること」を、告げ、祈り、何とかしてその人に出会わせようと働く、ということです。具体的には、まず、人に「神さまがあなたと共におられます」と祈ることが始まりだと思います。その人のことが嫌いであっても、その人が自分に不愉快な思いをさせる人であっても、相手が自分に悪を行なってくる人であっても、その人に祈る。「神さまがあなたと共におられます」と祈る。それが、イエスのみ心だからです。イエスさまの弟子になるとは、人間的な考えからすれば、理不尽なことです。だって、イエスさまは、「自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ5・44)と言われるのですから。しかし、それがイエスさまの命令であり、それが「イエスのみ心」なのです。

昔、まだ神学生であった時、本所教会の司祭館の食堂で、同じ本所教会出身の、浦野神学生と一緒に、下山神父さまにお茶をごちそうになった時があります。その時、テレビがついていて、クイズ番組をやっていました。「早押しクイズ」のようなものだったのだと思います。出題者が「骨折り損の・・・」と言うと、ボタンの早押しで回答者が「くたびれ儲け!」と答えました。すると突然、下山神父さんが、「骨折り損の、くたびれ儲けだって。カトリックの司祭みたいじゃネェの」と言って、二人の神学生の前ワッハッハと笑い出したのです。その時、わたしは何か奮い立つような気持ちがいたしました。カトリックの司祭は、骨折り損のくたびれ儲けのような道。そしてそれをワッハッハと歩ませていただくような道。上手く言えないのですが、とても嬉しく、喜びを覚えました。

麻布教会は「イエスのみ心」教会。償いの心を持って聖体を受け、イエスさまと一緒の向きで働く者の集いとなるように、教会としての召し出しを受けているのだと思います。祈り合い、働き合い、すべての人の内におられる神を認め合うことを通して。そしてそれは、人の世の目からすれば、「骨折り損のくたびれ儲け」のような道です。でも、それこそがイエスさまに従ういのちの道です。ミサを中心に集まるわたしたちが、本当の「イエスのみ心教会」になっていくことができますよう、一緒に努力してまいりましょう。6月は「イエスのみ心の月」です。

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