教会誌「こころ」2014年8月号より
主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
「今、時間があったら何をしたいですか」と聞かれたら、「焚き火がしたい」と答えると思います。7月に聖心の中2の子どもたちのキャンプに同行して、飯ごう炊飯の焚き火を見て、その心に火がつきました。
わたしは小さいころから、火が好きで、裏庭で何かを燃やしたり、火遊びをしたりするのが好きな子どもでした。「火いたずらをするとおねしょをするよ!」とよく母に言われ、実際、小学校に上がってもおねしょをしていました。わたしは、生まれは東京の江東区という下町で、家に風呂がありましたが、薪で焚く風呂でした。それで火に接する機会が多くありました。小学生の頃から、風呂を焚く当番というか、役目を仰せつかっていました。昔は今と違って、生活の中に焚き火の要素がありました。童謡に「たきび」という曲があります。
♪かきねの かきねの まがりかど
たき火だ たき火だ おち葉たき♪
という歌詞ですが、わたしが子どもの時分は、街中で落ち葉を焼くということが、まだありました。商店街の八百屋さんの店先などで、普通に焚き火がありました。石油の空き缶の側面にタガネで空気穴を開けただけの単純なものが、炉になっていました。そこにいらない段ボールだの、木屑だのを投げ込んで焚き火にしていました。その焚き火にあたるでもなく、あたらないでもなく、買い物かごを下げた近所のおばちゃんたちが、白い前掛けをしたまま、立ち話をしていました。
小学校の時分は「集団登校」というのがあって、近所の子が10人位ひとつのグループになって登校するという形になっていました。集合場所は、床屋さんの前で、冬場になると「ルンちゃん」という床屋のお兄さんが、毎朝、石油缶で何かを燃やして焚き火をしてくれたのです。みんなが揃うまでの、ほんの十数分くらいの時間だったのだと思いますが、毎日してくれました。みんなランドセルを背負ったまま、掌を焚き火に向けて温まってから登校したのです。
「今は昔の昭和のお話」ですが、今思い出してもそこには、ただ焚き火の暖かさだけではない、なにか温かいものがあったように思います。先だっての父の葬儀の時、今も江東区の地元に住んでいる従兄弟(わたしの家族は、わたしが大学生の時に千葉県に引越しました)と話す機会があったのですが、その従兄弟から、「ルンちゃん」が洗礼を受けた、そのお父さんもお母さんも洗礼を受けたと聞き、大いに驚きました。教会に通っているのだそうです。いつかお会いする機会があったら、半世紀近く前に、毎日してくれた、あの焚き火の事を尋ねてみたいと思いました。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12・49)とおっしゃるイエスさまは、もしかしたら「焚き火好き♡」かもしれません。復活の後、漁に出て、夜通し苦労しても何もとれなかった弟子たちに向かって、イエスさまは「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。弟子たちには、それがイエスだとはわかりませんでしたが、言われた通りにすると、網を引き上げきれないほどの魚がかかりました。その時、「主だ」とわかったペトロは、湖に飛び込み、他の弟子たちは舟で網を引きながら岸に戻って来ました。「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」(ヨハネ21・9)とあります。そしてイエスさまは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。イエスさまは来て、パンを取って弟子たちに与えられました。魚も同じようにされた、とあります。これはミサのことだと言われています。
毎週、そして毎日捧げられるミサの中に、焚き火はないのですが、実は、イエスさまというお方のいのちそのものが「焚き火」です。わたしたちはその回りに集まって、暖められるのです。そして「火にあたる」だけでなく、火そのものであるイエスさまが、わたしたち一人ひとりの内に来られるのです。そして、わたしたちは、そのいただいた火を持ち帰って、その火で回りの人を暖めます。今は、真夏ですので、体の暖まる話はあまり有り難くないかもしれませんが、現代人の我々は、背骨の中心といのち根幹をもっと暖め、熱していただく必要があると思います。
聖パウロは「霊の火を消してはいけません」(Ⅰテサロニケ5・19)と言っています。霊の火とは、共にいてくださるイエスさまです。焚き火を燃やし続けるには、薪をくべなくてはなりません。「霊の火」を消さないために、共にいてくださるイエスさまというお方の火に、わたしたち自身のいのちを、くべなくてはならないのだと思うようになりました。
