教会誌「こころ」2020年3月号より
主任司祭 ルカ 江部純一
四旬節を迎えるにあたって心したい二つの事柄を皆さんとともにしたい。
1. 中村哲氏の発言・行動
昨年12月にアフガニスタンで亡くなった医師、中村哲さん。現地で井戸を掘り、干ばつで干上がった田畑を見事な緑で再生した苦闘の活動を語った『医者 井戸を掘る』(石風社 2001年)の最後の部分では次のように語られている。
私が帰国して感じたのは、あふれるモノに囲まれながら、いつも何かに追いまくられ、生産と消費を強要されるあわただしい世界であった。確かに澱んだような閉塞感で往時の活気はなかったが、私には不平や不満の理由がよく解らなかったのである。「飢えや渇きもなく、十分に食えて、家族がともに居れる。それだけでも幸せだと思えないのか」というのが実感であった。生死の狭間から突然日本社会に身をさらす者は、名状しがたい抵抗と違和感を抱くだろう。美しい街路には商品があふれ、デフレであっても決して生活が逼迫しているとは見えない。
仏跡破壊についても、言いたいことがあった。「偶像崇拝」で世界が堕落しているのは事実なのだ。「偶像」とは人間が拝跪(はいき)すべきでないものの意である。アフガニスタンの旱魃が地球温暖化現象の一つであれば、まさに人間の欲望の総和が、「経済成長」の名の下で膨大な生産体制を生み出した結末であった。さらに、打ち続く内乱は、世界戦略という大国の思惑と人間の支配慾によるものである。そして、世界秩序もまた、国際分業化した貴族国家のきらびやかな生活を守る秩序以外のものではなかろう。かくて、富と武器への拝跪・進行こそが「偶像崇拝」であり、世界を破壊してきたと言えるのである。この意味において、タリバンの行動-偶像破壊を非難する資格が日本にあると思えなかった。平和憲法は世界の範たる理想である。これを敢えて壊(こぼ)つはタリバンに百倍する蛮行に他ならない。
また氏は「100の診療所より1本の用水路を」「どんな山奥のアフガニスタン人でも広島・長崎の原爆投下を知っている。その後の復興も。『日本は一度の戦争もせずに戦後復興をなし遂げた』と。他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条はリアルで大きな力で、僕たちを守ってくれている」と講演で述べている。
2. 「11月の雑感」と題した2018年11月の巻頭言(神田教会)
シリア紛争地域で拘束され、3年4ヶ月ぶりに解放されて無事帰国したジャーナリスト安田純平さんに対して、批判が起こっているようだ。特にインターネット上で心ない言葉が投げかけられていると聞く。曰く「日本に迷惑をかけるな」「殺されても文句は言えない」など。インターネット上であること、匿名であることを隠れ蓑に、無責任極まりない勝手な批判に対して、安田さんは「事実に反することもあるのできちんとした情報に基づいて批判してほしい」と帰国してすぐに述べている。批判の多くは「自己責任」ということだ。わたしはこの「自己責任」という語が使われるとき、いつも虚しさを感じる。
2004年イラクで3人が拘束される人質事件が起こったあと「自己責任論」が巻き起こった。「自己責任」という言葉は1985年頃から使われ始めた新しい言葉である。金融の規制緩和の際に用いられた「自己責任原則」が元になっているようだ。自分の資金運用は自己責任で行いなさい。損しても面倒は見ませんよ、ということである。この言葉が一人歩きを始めてしまい、人を打ちのめし根拠のない非難をすることを指すようになったのであるが、非難している当人は「根拠のない非難をしている」ことなど全く意識していないであろう。むしろそれはだれも責任を取らない「無責任の体系」そのものを表している。「外務省設置法」第四条には「外務省は、前条の任務を達成するため、次に掲げる事務をつかさどる。」とあり、その第九項には「海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること。」と規定されている。*
「毎日新聞」11月4日付記事には、海外紙3名の記事が掲載されている。「私も過去にイラクなどの紛争地で取材したことがあります。できる限り現場に近づき、何が起きるているのか正確に伝えるのはジャーナリストの使命です。危険は慎重に見極めますが、時にはリスクを取る必要もあります。その結果、安田さんのように犯罪の被害者になってしまった人を責めてはなりません。」(「タイムズ」(英)リチャード・ロイド・バリー氏)。「フランスで4年前に過激派組織、イスラム国(IS)に拘束されたジャーナリスト4人が解放された時は、大統領が出迎えて帰国を喜びました。彼らは正確な情報を届けるため、命がけで危険な紛争地に行ったのです。・・今回のような批判が起きる背景には内向きのナショナリズムの高まりがあるのではと心配しています。」(ルモンド(仏)フィリップ・メスメール氏)。「「国に迷惑をかけた」という発想になるのは世界でも日本だけではないか。悪いことをしたら無視される「村八分」という言葉がありますが、そうした文化の影響でしょうか。非難されるべきなのは安田さんではなく拉致した武装組織でしょう。」(「朝鮮日報」(韓)李河遠氏)。
安田さんは拉致されていた生活を「過去の仕事や人間関係を振り返って、やろうとすればできたのに、なんでやらなかったんだろうと後悔ばかりしていた」「今も2~3時間ぐらいしか眠れず、明け方に目ざめてしまう」とインタビューに答えている(11月8日付「毎日新聞」社会面)。
責任(英語 Response)という語の語源はラテン語にある。「答える、応ずる」であり、「おまえが約束するのなら、私も約束しよう」という相互保証の関係を意味する。だから、自己責任論のように一方だけが責めを負うという論理はありえないのである。*
イエスは手の萎えた人をいやした。しかしそれは安息日であった。「安息日に許されているのは、善を行うことか。悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と周囲の人々に問うた。「彼らはだまっていた」(マルコ福音書3章1-6節)。生まれつきの盲人をいやしたイエスに対して、ファリサイ派の人々は「どうして見えるようになったのか」「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と反感をもって述べている(ヨハネ福音書9章)。いずれも、病気や障がいのある人が癒やされ、不自由から解放され、仲間のもとに帰って行くことができたことを露ほども喜んでいない。「病気が治ってよかったね」「これから安心して暮らしていけるね」「無事でよかったね」「苦労が報われたね」とどうして言うことができないのか。
「自己責任」云々は、無責任の体系、人を非難することで自分を守ろうとする偏狭な言動である。主イエスはそのようなありさまを悲しみの眼差しで見ておいでになる。
*桜井哲夫「「自己責任」という妖怪」(PR誌「月刊百科」501号2004年 平凡社=現在休刊)