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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2018年 3月 4日(日曜日)

四旬節・「十字架の道行」の思い出

教会誌「こころ」2018年3月号より

 

主任司祭 パウロ三木 稲川圭三

 

今年の「灰の水曜日」は2月14日。この日から四旬節が始まりました。典礼の色は紫に変わります。四旬節は復活祭(正式には「聖なる過越の三日間」が始まる、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」の前)までの期間を指します。月の上旬、中旬、下旬という言い方をすることから分かるように、漢字の「旬」には十日間という意味があります。ですから四旬節とは「40日間」という意味になります。聖書で「40」という数字には、特別な意味があります。思い出すままに挙げてみても、「ノアの箱舟の40日の洪水」、「イスラエルの民の荒れ野での40年の旅」、「モーセがシナイ山に留まった40日」そして「イエスの40日間の断食」等が数えられます。「40」には苦難、試練の意味もありますが、それが最終的な意味ではありません。「40」という期間が、「神さまとの出会いに導かれる時」であることを忘れてはならないと思います。

さて、「四旬節」は復活祭に洗礼を受ける、洗礼志願者の準備期間として起こりました。しかし、初めから40日だった訳ではなく、イエスさまの40日の断食に倣って、次第に期間がそのように定まっていったようです。四旬節は、洗礼志願者が「神さまとの出会いに導かれる」恵みの時です。しかし既に洗礼を受けた者にとっても、自分の受けた洗礼の恵みを、新たに受け取り直させていただく恵みの時です。それで、教会をあげて復活祭をふさわしく迎えるために、「祈り」と「善い行い」と「断食」に励む習慣が生まれました。

四旬節に特に大切にされる祈りに「十字架の道行」があります。これはイエスさまの受難を黙想する祈りです。出来事を具体的に思い巡らすために、死刑の宣告から十字架の死に至るまでの歩みが14場面にまとめられています。そして、それぞれの場面が絵やレリーフ等で表され、聖堂内、あるいは屋外のしかるべき場所に設置されます。その一つひとつ が留(りゅう)と呼ばれます。英語ではstation(駅)と呼ばれるのが、ちょっと面白く感じますが、要は「十字架の道行」とは全部で十四あるstationを巡って一つひとつに留まりながら、キリストの受難を思い巡らす黙想なのです。麻布教会では四旬節の期間中、基本的に毎金曜日の午前十時(月の第一金曜日は十時ミサ後)に行われています。聖堂内の左前方の柱に「第一留」、右前方の柱に「第十四留」のレリーフが掲げられています。石膏で出来ていて真っ白に見えますが、唯一イエスさまとマリアさまの頭の回りだけには金色の彩色が施されています。「知らなかった」という方も多いと思います。ぜひ、探してみてください。所要時間としては、十四の留を時計と逆回りの方向に一回りして、だいたい三十分くらいの黙想になります。

子どもの頃のことを思い出してみると、やはり四旬節という季節には「十字架の道行」がありました。わたしの出身教会である、下町の本所カトリック教会では、確か、毎週金曜日の午後3時と午後7時に行われていたように思います。当時は「公教会祈祷文」という黒いお祈りの本を使っていて、一留毎に「主祷文」(主の祈り)、「天使祝詞」(アベマリアの祈り)「栄唱」を唱える形だったので、今よりもっと時間がかかりました。また当時聖堂は入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える形での入堂で、留毎に移動しながら、冷たい床板に跪いてのお祈りでしたので、子ども心にはちょっと「苦行」に近いイメージがありました。また、十字架の道行には侍者がいました。司式する神父さんと共に、十字架を持つ侍者と、その両脇にろうそくを持った侍者が従い、留のレリーフの下に移動しては、会衆の皆さんの方を向いて立つという形で行われて いました。ろうそくの侍者になると、40~50分間ろうそくを持ち続けることになるので、目の前でろうそくの炎がゆらゆらして、その熱気で朦朧となることもありました。また、当時の祈りの言葉は文語体で、韻を踏んでいてリズムがあり、重々しさもありました。それが子どもには眠さとなって作用することもあり、時にウトウトすることとも戦わなくてはなりませんでした。そして留と留との移動の間に、短い歌が歌われました。それはグレゴリオ聖歌(ラテン語)の「スタバト・マーテル」(「聖母マリア」が、御子の十字架の元に「立たれた」という意味)の3番でした。

“サンクタ マテル イストウド アガス
クル チ フイクスイ フイジエ プラガス コルデイ メオ ヴアリデ”

「聖母よ、十字架にくぎ付けにされたおん子の傷を、わたしの心に深く印してください」 という意味の短い歌を挟みながら、十字架の道行は坦々と祈られました。

そんな十字架の道行の侍者をしていて、ただ一度ですが、べつの戦いをしなくてはならなかったことがあったのを思い出しました。父には兄がおり、巌(いわお)さんといいます。霊名はペトロです。六人兄弟(下の二人は空襲で戦死)の長男で、父は次男になります。わたしにとっては「巌伯父さん」で、ペトロのように真っ直ぐで温かく、ちょっとフーテンの寅さんのようなところのある、大好きな伯父さんでした。ある時、巌伯父さんは寝ぐせなのか、真っ黒な髪の毛をにわとりのトサカのようにおっ立てたままで、十字架の道行に来ていました。人目を全く気にしないそのようすを見て、確か、下山神父さまも一瞬笑いそうになっていたように記憶しています。それだけでも吹き出しそうだったのに、伯父さんは留の移動の度毎に、「スタバト・マーテル」を大真面目に、妙なこぶしを付けて、しかも大声で「サーラマレー イースーラウ ラー」と、ちょっと緩めのいい加減な歌詞で歌うのです。それには、笑いを堪えるための必死の戦いをしなくてはなりませんでした。しかもそれが十四回も繰り返されるのですから、大変な戦いでした。

さて、その巌伯父さんには、十字架の道行の時の、もう一つの特別な思い出があります。これはもう、わたしが大人になってから、あるいは神学生になってからのことだったのかもしれません。十字架の道行をしていて、伯父さんが突然泣き始めたのです。十字架の道行は信心業ですから、司祭でなくてもだれでも司式できます。その時は午後3時からの時で、下山神父さんがおられず巌伯父さんが司式をして、わたしが侍者をしていたのだと思います。右側の柱に移って最初の留でしたから、おそらく第八留「イエズス、エルザレムの婦人を慰め給う」のところだったのだと思います。祈りの言葉を読む内に伯父さんは涙声になり、泣きながら祈りの先唱を続けたのです。その姿は、わたしの心に深く印されました。伯父さんは若い頃、片方の手の指を2本失っています。工場で働いていて指を落としてしまったのです。そして落とした指を持って、自分の足で病院まで行ったのだという話を、親から聞かされていました。そんな気丈な伯父さんが、泣きながら祈っていました。巌伯父さんには六人子どもがいて、わたしと同じ年のいとこの信ちゃんは、中学2年の時、部活で怪我をして、首から下が不随になってしまいました。それは今でも変わっていません。伯父さんの涙が、どんな涙であったのか、詳しいことは分かりません。ただ、その時一緒にいて感じたのは、その涙が、ただの苦しみとか悲しみの涙ではなかったということです。今考えてみると、神さまが、そしてイエスさまがしてくださったことへの感謝の涙に 近いものであったのではないかと思います。泣きながらイエスを慕い従ってきたエルサレムの婦人たちを顧み、自分の苦しみを忘れて彼女らを慰められた、イエスさまのお心に触れられたのではないだろうかと、そんな風に思いました。今は父も伯父さんも、その兄弟たちも皆亡くなりました。でも、一緒の向きで生きるいのちとなってくださっています。信ちゃんも、車椅子に乗って、毎週欠かさずミサに与り、天使のような明るさと平らな心で、いつも第八留のあたりに座っておられるのだと、わたしの家族から聞きました。

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