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教会誌「こころ」巻頭言
Kokoro
2019年 12月 1日(日曜日)

ともに生きようとするこころ

教会誌「こころ」2019年12月号より
主任司祭 ルカ 江部純一

先日、新聞のコラム「「愛」とは何か」(11月12日付毎日新聞 歌人 川野里子氏)を読んで思うことがあった。

川野さんは、五年ほど前のイスタンブールでの出来事として記している。道端の側溝に座り込んで泣いている男の子や、小学生くらいの男の子と幼い女の子が寄り添ってぐったり座り込んでいる様子を見て、「私は子供の前に立ち止まり、躊躇い(ためらい)、呆然とし、誰かいないかと見廻し、そして振り返りながら旅行者として歩き去った。」「あの時何をすべきだったか、と今も思う。(中略)着がえさせ食事をさせたかった。声を掛けたかった。だがその先に座り込む子供たちは見捨てるのか。(中略)私は、あの側溝の男の子にこそ聞いてみるべきだったのだ。「元気?」「今日食べたの?」「ちゃんと寝てる?」と。

朝な朝な子供のまなこの中のわれ何か必死に抱きてゐたれど
米川千嘉子

幼い子供の目に映る母親。若い母親の私は幼子を必死で抱いていたけれど、しかし、本当に抱いていたのは何だったろう? 抱くべきものをきちんと抱いていただろうか。あの縋る(すがる)ような難民の子供の目が忘れられない。そして思うのだ。愛とはついに偏愛であるほかないのか、と。」

声を掛けることさえできなかったときの胸の痛み。たぶんだれもが抱く後悔の念。

川野さんは話すこともできない幼子の目を通して、母親の(自分の)こころの奥底にある思い、を問うている。抱くべきものとは、そこにいるその子の存在そのもの。息をし目を閉じ口を開く小さな生命の躍動、子供の肌のぬくもり、親愛の情に裏打ちされた確かな親子の愛。幼子は必死に親に縋る。親も必死に子供を守る。抱くべきものをきちんと抱いている。だからこそ、あの難民の子供の目を、子供のこころを抱くことができなかったことが悔やまれ思い出されるのではないか。

マザーテレサが話していたことで、白柳枢機卿も各教会を廻られた時によく引用された言葉がある。「(世界平和のために私たちは何をしたらいいのかと聞かれ)すぐに(国に)帰りなさい。すぐに家に帰って家族を大切にしてください。」難民を前に無力な自分がいることをいやでも突きつけられる。駅のホームで人が倒れていて、助けようかどうしようかと躊躇している間に電車のドアが閉まる。窓から若い女性が介抱するために近寄っている。自分の実態が曝され(さらされ)、おろおろする。これらの、多くは日常の出来事のなかに一人ひとりの生き方が現われ出てくる。それでも一人ひとりは善良な市民であり、人に向き合う大切さを知っている。

イギリスの慈善団体が、世界人助け指数というものを公表した。他者への気遣いや寛容さの度合いを三つの行動から推し量ったそうだ。総合ランクで日本は126カ国中107位。中でも「見ず知らずの人を助ける」行動の評価は最下位だったそうだ(毎日新聞11月6日付 編集委員 元村有希子氏のコラム)。人とのつながり、交わりが薄れている。都会だけでないだろう。日本社会全体が人に無関心、不寛容、多数になびくなど様々な現代の風潮に侵されている。そんな中で今回フランシスコ教皇が訪日され、教会だけでなく日本社会全体にメッセージを発せられる。教皇就任以来発言されてきた言葉の一つひとつを改めて思い起こす。そのとき、自分の意識のうちにはあるけれどなかなか行動に移れない多くの事柄について、自分の中の何が邪魔をしているのか、よく振り返ってみる機会である。

広島、長崎の原爆被災者のことを忘れない。東日本大震災の被災者を忘れない。今でも避難生活をしている多くの被災者のことを忘れない。日本に来ている外国人の生活状況を少しでも知り、忘れない。罪なき人を罪に追いやっている今のわたしたちの社会状況を忘れない。だれもが人間らしく生きることができるよう声を上げることを忘れない。主イエスが「失われた羊を探し求めるために」来られ、忘れられた人が一人もいないように歩まれたことを決して忘れない。そのために、子供を抱いた(抱けなかった)人の苦悩をも自分のものとして忘れない。自分を見つめるよい機会がいつも与えられていることを忘れてはならないだろう。

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